哲学

経験機械への反論ーー幸福の想像性とその限界

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この記事は、VRが実現しうる可能性としての「経験機械」や、その反論について書いています。

「経験機械」とは?

経験機械とは、哲学者のロバート・ノージックが1974年に「Anarchy, State, and Utopia(アナーキー・国家・ユートピア――国家の正当性とその限界)」で提唱した思考実験に出てくる架空の装置です。

経験機械は、人間の脳に電極を刺し、電気刺激を与えることで、その人間が望む「理想的な状況を経験させる」機械です。

快楽主義的功利主義(快楽を善とみなし、苦痛を悪とみなす哲学的立場)に従えば、経験機械の実現は善だといえます。

提唱者のノージック自身は、「もし経験機械が実現したとしても、人間は一生経験機械に繋がれることを望まない」と考え、以下の3つの理由から経験機械について批判しています。

  1. 私達は何かを「したい」のであり、何かをすることを「経験したい」のではないから
  2. 私達は特定の人格・存在であり、経験機械に繋がる存在になりたいわけではないから
  3. 私達を取り巻く「本物の現実」に対し「人工の現実」は深さと重要性を持たないから

理由1については、何かを「したい」のでなく、何かを(他者や社会からの承認を得るために)「経験したい」と考える場合を踏まえると、そうした行為は「虚構ではなく現実で起きるからこそ意味がある」という文脈の上では正しいと考えられます。

理由2については、経験機械に繋がった時点で、「経験機械に繋がっている私」が偽物になり、「経験機械が見せる私」こそが本物と認識されるならば、経験機械次第で説得力に欠けます。しかし、特定の人格・存在という観点はヒントが得られます。

理由3については、経験機械が表現する空間の解像度だけでなく、経験機械が偶然や確率に支配されたイベントを生じうるか、カオス性をどれだけ生み出しうるか、起きた出来事に(物語としての)深さと重要性を演出できるかが鍵になると言えます。

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経験機械に対する反応例

Googleで「経験機械」の関連キーワードを調べると、「反論」がサジェストされることを考えても、多くの人々が経験機械を倫理的・道徳的・感情的に反論したいと思っていることが想定されます。

もし、自分の今までの人生が経験機械に繋がれて生み出された幻想だったとして、現実に戻るかアンケート調査した研究で、経験機械から出た後の現実が好ましかったとしても、経験機械に繋がり続けると回答する被験者が半数近くいることを示し、行動経済学におけるプロスペクト理論ーリスク回避傾向による現状維持バイアスーで経験機械と現実の移動を抵抗する行動を説明しうる可能性が言及されています。

Part of the explanation for why most people prefer not to disconnect after spending their life in an experience machine (as in the Negative and Second Neutral vignettes) may not have to do with the virtual character of the experience, nor with the amount of pleasure they are told they would feel, but rather with the simple fact that most people don’t want to abandon the life they know, the life they have lived so far, the life they are familiar and comfortable with. And if this explanation of my variation on Nozick’s thought-experiment is accurate, then it follows that people’s reluctance to plug in to Nozick’s original version of the experience machine may turn out to be just an effect of the same underlying psychological bias: some people may prefer to remain unplugged, not because they value reality, but because they are averse to losing their status quo.

Felipe De Brigard, “If you like it, does it matter if it’s real?”, in Philosophical Psychology 23-1, 2010, p.51.

一方、経験機械に関連する思考実験の典型的な仮定で、経験機械に関する記憶を被験者は持たないとされていることが、VRと経験機械で根本的に異なるという考えに対し、「洗練されたVRで起きていること」は「使用者の現実で起きていること」で、「VRにいることを完璧に把握しているVRユーザ」の存在が「経験機械ユーザ」の思考実験を妨げるものではないという指摘もなされています。

At least for sophisticated users of VR, what seems to happen in VR by and large really happens. One may seem to have a conversation, and one really does have a conversation. One may seem to enter a virtual house, and one really does enter a virtual house. One may seem to be virtually flying, and one really is virtually flying. I would add that virtual actions are plausibly real actions (albeit with a virtual body), so that when one performs virtual actions, one really is doing something. A related worry for the Experience Machine is ignorance. In the Experience Machine, users presumably often will not know that they are using an Experience Machine, so there is much more scope for them to have false beliefs as well as perceptual illusions. But none of this is an objection to use of standard virtual realities, where users know perfectly well that they are inhabiting virtual worlds.

David J. Chalmers, “The Virtual and the Real”, in Disputatio, vol. IX, no. 46, 2017, p. 339.

以上を踏まえると、脳と機械を接続する技術やVR技術に関する考察の中には、現実と虚構をとりわけ区別する必然性がなく、経験機械が生み出すような虚構に入った後の人類は、心理的な現状維持バイアスにより「経験機械に接続された一生」を選ぶ可能性を(ノージックの予想と反する形で)示唆しています。

経験機械は、幸福に対する個人の想像力を超えられない

ここで、今までの議論で取り上げてこなかった経験機械の課題について触れます。

経験機械が技術的に実現しても「経験機械が何を経験させるかには個人の想像力という限界が存在する」ということが本記事での経験機械に対する反論です。

例えば、ある人が自分の「現実の」人生に幻滅し、絶望しているとしましょう。その人は、自分にとって、嫉妬を抱くような理想的な人生を経験したいと思い、経験機械で幸福感に満ちた感覚を体験したとしましょう。しかし、その人物が経験機械を使った途端、そこからは「経験機械を使う前の人物」の個性は消失します。

すると、「経験機械を使う前の人物」が望んでいた「幸福(だと目に映っていた、あるいは考えていた)理想の人生」にも、「経験機械を使った後の人物」にとっては大した価値を持たず、全く異なる理由ー経験機械を使う前には想像しなかった理由ーによって、結局は「人間であることによる避けがたい苦しみ」を抱えてしまう懸念があるのです。

さらに、経験機械を使う前の自分にとっての「幸福」が、その人物のその時点での価値観や遍歴、想像力によって限定されるということも制約になります。マズローの欲求段階のように、人間は「今の自分に欠けているもの」を求めるため、その欲望を満たしても、次なる欲望を追いかけ続けることになります。

そして、根本的な問題として、経験機械のような虚構を生み出す装置は、最終的にすべての人間に対し「完璧な人生プラン」を「おすすめコース」として画一的に提案してしまい、人生の深さー思いがけない偶然の出来事ーのない、整然とした計画を単にこなすだけの予定調和ゲームを生み出してしまいます。

精神分析家のジャック・ラカンは「人間の欲望は他者の欲望である」と喝破しましたが、経験機械はあらゆる人間から自分のモノサシを取り上げ、「他者の欲望を欲望すること」を全肯定してしまう。結果的に人間からあらゆる他者を奪ってしまう。経験機械は人生を画一的な価値基準に還元してしまうのです。

私達が目指すべき(VRなどの)技術の方向性として、個人を尊重することが重要になるでしょう。システムとしての最適化を図る場合、そこには一種の全体主義的な抑圧が生まれてしまうからです。経験機械は人生を単純化する究極のシステムです。こうした装置への憧れには注意が必要です。

VRを開発するのであれば、理想的な部分だけを描くのでなく、不都合さ・理不尽さ・不確かさを取り入れることで「現実の」人生に対する洞察を深め、真の欲望を抱けるような設計思想にすることが重要になります。

人生を社会的な価値基準から判断して理想的なものにしなければならないという強迫観念から離れ、完璧な人生を目指さず、わかりやすい幸福でない、自分にとっての幸福の基準を生み出せる人間こそ、快楽主義的功利主義から抜け出して、理想的な人生を送る「自分にとっての幸福の基準」という経験機械を持つことになるのです。

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