哲学

人生に生きる価値はないのか考えたら、自分しか自分の人生の意味を決められないことがわかった

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

結論(要約)

  1. 生きる価値、生きる意味は、構造的に「客観的には決めることが出来ず、人生の意味や価値は自分自身しか決められないことが構造的に導かれました。
  2. 生きる価値、生きる意味は、個人が自分自身の価値や意味を知ることはできますが、他人の生きる意味や生きる価値について知ることは「価値」や「意味」の定義から構造的にできません。
  3. 生きる価値、生きる意味は、主観的に決まるものであり、社会が一方的に個人の能力や属性を元にした「必要/不要」を決めることもできませんので、一般に言われる「優生思想」や「安楽死」の論理は破綻しています。

目次

  • 哲学は人間を幸福にしない
  • 「人生の価値(意味)」に関する三つの証明
  • 証明1「価値を決定する構造に由来する証明」
  • 証明2「神の存在の宇宙論的証明の不可能性に由来する証明」
  • 証明3「世界の存在の不可能性に由来する証明」
  • 「人生の価値(意味)」は自分で決めるしかない
  • 構造的な人生の価値の不在に対する二つのアプローチ
  • 超人主義的アプローチ
  • 実存分析的アプローチ
  • 二つのアプローチを関連づける「意味・苦悩・絶望の公式」
  • 「生きるに値しない命」かどうか他者が判断できないことの証明
  • 自己肯定感は自分自身で生み出すしかない
  • おまけ:21世紀少年の「ともだち」について

哲学は人間を幸福にしない

まず、お断りさせていただきたいことがございます。

この記事を読んでも、急に生きる意味に目覚めたり、

明るい希望が湧いてくるといったことはありません。

ただただ、論理学的な「真理」を書いていますので、

「ふ〜ん、こういう考え方もあるのか〜」などなど、

生きる価値について考えるヒントになれば幸いです。

さて、ここから「哲学的」な記述が続きますが、これらは「科学的」なことかと言うと、そうではりません。

科学はあくまで「客観的」な視点から分析するものであり、哲学のような「主観的」な議論とは異なります。

今回の記事の序盤〜中盤で本を頻繁に引用させていただいた中島義道氏の以下の記事なども参考になります。

この場合、哲学者と科学者は違います。科学者の良心が議論されることがありますが(原爆を造った科学者の責任問題など)、科学は、その応用としての工学とともに、やはり人々の幸福から隔離されたところにはないでしょう。さしあたり人類の幸福には結びつかない純粋な基礎研究もあると思いますが、はっきり人類の不幸(滅亡、劣化)を引き起こすような研究(遺伝子操作など)に制裁が加えられるは当然のことでしょう。

しかし、哲学においては、たとえ人類が滅びようが、劣化しようが、不幸になろうが、真理は真理なのです。しかも、この場合の「真理」とは、科学的真理のようにいわゆる客観的(間主観的)なものではない。哲学者1人ひとりが誠実かつ真剣に思考し続けて到達したこと「すべて」です。それを超えた「客観的」な知などない。

中島義道、哲学が人類を「幸福にしない」これだけの理由 大学から哲学科が消えるのは由々しき事態か、東洋経済オンライン

こうきくと、

「じゃあ、哲学は主観的な学問なら、「自分はこう思う」の範疇を超えられないんだから、考えたって意味なくね?」

などと思われるかもしれません。

結論から言えば「自分はこう思う」とあくまで主観的に考えるからこそ、意味があるのです。

  • 自分はなぜ生きているのか
  • 自分はなぜ生まれてきたのか
  • 自分は何をするのか
  • 何のために死ぬのか

こうしたことは、自分で一から考えないかぎり、(学校でも)誰も教えてくれません。

大切なことは、自分で考えて決めるしかないのです。

したがって、自分のオリジナルの思想というものは、非情に泥臭く、血生臭く、とても人様には見せられないような、誤解や錯覚も含んだ「恥ずかしい」ものになることもままあります。

しかし、偉大な哲学者は、それを言葉で表し、公にしているからこそ、人の心を揺さぶるものなのです。

キルケゴールは、まさにこうした仕方で「真理」に至るほかないということを血の言葉で語り続けた哲学者である。哲学的真理とは何か?それは、科学的真理と重なり合うことはない。それは、むしろいわゆる客観的真理とは対立する。しかし「主体性」が真理であるなら、真理を摑んでいると確信している当人こそ錯覚に陥っているかもしれないではないか?

そう、その通り。キルケゴールは、真理とは「もしかしたら、すべてが錯覚かもしれない」という疑いと背中合わせに成り立つこと、それは真理を摑んでいる確信を「揺さぶる」かたちでのみ近づきうること、こうしたことを真摯に示してみせた。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.201-202、新潮文庫

次のセクションからも、誤解や錯覚が含まれているかもしれません。

そもそも哲学のプロが書いてないです。

まちがいも含まれてるかもしれません。

その時はご指摘いただけると幸いです。

(もちろん筆者は「真理」だと考えていますが、

論点の穴が気づかぬうちにあるかもしれません。)

「人生の価値(意味)」に関する三つの証明

このセクションでは、

  • 人生の価値(意味)
  • 世界

の三つが存在するかどうかについて、

構造的に似た「不在証明」があることを説明します。

証明1「価値を決定する構造に由来する証明」

まず最初は、「人生の価値(意味)」が、当人の人生の内容に関わらず、すべての人間の人生が価値がない、という衝撃的な(哲学では有名な?)この記事を書く最初のとっかかりとなった本の内容を以下で引用します。

「人生に生きる価値がない」というタイトルまんまの本がありまして、その本のあとがきで哲学者の野矢茂樹氏が自分なりの人生に価値がないと考える理由を説明した箇所を取り上げます。

ざっくり書くと、「価値」というものは、その価値を有する存在の外側にある存在からの評価で決まっているとすると、その構造の最も外側にあるものは、個人にとっては「人生」になる。そのため、「人生」の外部は存在しないことから、人生だけは価値がない(あるいは価値があるかわからない)という状況になっている、という内容です。

私たちは、漠然とであれ、いわば「価値の物差し」をもっている。価値の評価軸の上に、すごく価値があるものからまったく価値のないものまで、さまざまなものごとを位置づける。そうして人によっては、例えばショパンを上の方に位置づけ演歌を下の方に位置づける。もちろん逆の人もいる。ところが、人生自体をその評価軸の上に位置づけることはできないように思われる。ここに、「人生無価値」という言葉のポイントがある。

私たちは自分の人生の中で、さまざまなものごとを自分にとって価値づける。だから例えば私にとってはどんなスポーツカーもどんなヴィンテージワインも価値はない。しかし、もし私が別の人生を送っていたならば、そうしたものに価値をおいていたかもしれない。つまり、人生そのものがものごとを価値づける物差しなのである。だとすれば、その人生そのものの価値を計るということには、構造的な困難がある。

ときに人は自分の人生を社会の中で価値あるものにしようと努力するかもしれない。そのときは、社会が人生を計る価値の物差しとなる。だが、そうして社会が価値の物差しになるとき、こんどはその社会それ自体を価値づけることができなくなる。「人生は無価値だ」というつぶやきに変わるのである。かくして、構造は一般的なものとなる。あるものごと(α)ー例えばヴィンテージワインーは、それを位置づけるより大きなもの(β)ー例えば人生ーの中で価値づけられる。さらにβを価値づけようとするならば、βを位置づけるより大きなもの(γ)ー例えば社会ーがなければならない。さらにγを価値づけようとするならば、γを位置づけるより大きなもの(δ)ー例えば歴史ーがなければならない。こうしてより大きな何かを求めた結果、あらゆるものを価値づける最大のもの(ω)が要求される。それを「世界」と呼ぼう。そのとき、「世界」を価値づける評価軸はもはや存在しない。「世界はまったく無価値」となるのである。

(中略)

かくして、中島さんにとって人生はその中であらゆるものを価値づける最大のものωとなる。だとすれば、人生そのものをそこに位置づけ、人生を価値づけてくれるより大きなものなど、ありようはずもない。この人生は、外部をもたないのである。

(中略)

すでに述べたように「人生は無価値だ」という言葉は、その人生がどのようなものであれ無価値だというラディカルさをもっている。いわば、人生が無価値なのは、その内容のゆえではない。人生は人生というだけで構造的に無価値なのである。

(中略)

彼のニヒリズムは私たちを死へと後押しするそれではなく、むしろ死の不安から解放してくれるものなのである。おそらく、その考えの筋道はこうだ。

人生に価値はない→死んでも失うものはない→死ぬのはこわくない→ああ、楽になった。

(中略)

ともあれ中島さんは死ぬのがこわい(こわかった)。それは、死がすべてを奪い去るからである。ところが、人生が無価値であると、とことん体に染み込ませえたならば、こんなもん奪われたところでどうってことないという気持ちにもなる。かくして、死の不安から解放される。

野矢茂樹、人生に生きる価値はない(あとがき)、pp.276-281、新潮文庫

こちらの引用内容を図にまとめると、次の図のようになります。

ワインとか、本とか、ゲームとか、動画とか、

なんでもいいのですが、あるものの価値αは、

「世界→歴史→社会→(個人の)人生→α(ワインなど)

といった評価構造で決定しているとわかります。

しかし、

「世界のなかに個人の人生がある」

といえる一方で、当の個人にとっては、

「自分の人生のなかに世界がある」

とみなしても不自然ではありません。

そして、例えば、

  • 人生にとっての世界の価値は・・・4点/5点
  • 世界にとっての歴史の価値は・・・3点/5点
  • 歴史にとっての社会の価値は・・・2点/5点
  • 社会にとっての動画の価値は・・・5点/5点

といったように、自分を軸に判断がくだせます。

そして、最も重要な点は、

  • 自分にとっての自分の人生の価値は・・・1点/5点

などと自分で自己言及的に決めても矛盾は起きませんが、

  • 自分にとってのAさんの人生の価値は・・・3点/5点

などと一方的に決めようとしたところで、

他人の人生の価値を決めることができることを許容すると、

  • BさんにとってのAさんの人生の価値は・・・0点/5点
  • CさんにとってのAさんの人生の価値は・・・4点/5点
  • DさんにとってのAさんの陣営の価値は・・・3点/5点

と、とても統一的な見解は得られなさそうです。

したがって、論理学的には、どうやら人間の価値は個人個人が自分の価値を一意に決めることは問題なさそうだが(例えば、もし宇宙に人間が唯一人だとした場合、つまり人間の数がn=1という極限の場合、自分自身でしか決めるしかないこと、さらにもし宇宙に人間が誰ひとりいなければ、つまり人間の数がn=0という極限の場合、やはり自分自身で決めるというルールから価値=0になることから、極限を考えてもそうそう不自然な結果にはならない)、他人の価値も自分で決めようとした途端に、整合性が取れなくなることが判明したと思います。

「なるほど、人間が勝手にお互いの人生の値付けをすることに整合性がなさそうなことは確かだろう。それなら、神様とか、仏様とか、いわゆる人知を超えた超越者がいて、それがそれぞれの人間の人生の意味や、価値を決めているんじゃないか?」

とお考えになるかもしれません。

でも、既に感づかれた方もいるかも知れませんが、先程の「価値の構造」と同じ構造が「神」などの超越者についても言えるのです。

証明2「神の存在の宇宙論的証明の不可能性に由来する証明」

いわゆる神の存在証明というものは色々なバリエーションがあります。

最も有名なのは、パスカルによる「神を信じたほうがお得だよ」理論です。

あなたが、神がいるかどうかをコイン投げのゲームをするかのように当てるギャンブルをするとして、

  • 神がいると賭けて、神が存在する→神が見ていると思って良いことをしてたら報われる→+∞点
  • 神がいないと賭けて、神が存在する→神なんかいないと思って悪いことをしてたら罰せられる→-∞点
  • 神がいると賭けて、神が存在しない→とくになし→0点(あるいは神を気にしすぎて思うように生きられなくて-n点)
  • 神がいないと賭けて、神が存在する→とくになし→0点(あるいは神を気にせず好き放題に生きて+n点)

この4パターンの中で、神を信じたときの数学的な期待値は、神の存在確率をPとすると、

  • 神がいると賭けた場合:+∞×P-n×(1-P)=+∞
  • 神がいないと賭けた場合:-∞×P+n×(1-P)=-∞

となって、神を信じたほうが合理的に(戦略的に)正しいと言ったのでした。

(パスカルと言えば確率論ですが、期待値の計算はこういう使い方もできるのですね。)

とはいえ、神をなんと定義するかによりますが、もう少し当てずっぽうではなく考えたいところです。

ここで参考になるのがカントで、純粋理性批判の中で彼は「神の存在証明」を分類しているのですが、その中でも今回の記事にそったものを一つ取り上げてみます。

『もし何か或るものが実在するならば、絶対に必然的な存在者もまた実在せねばならぬ〔大前提〕。少なくとも私自身は実在する〔小前提〕。故に、絶対に必然的な存在者は実在する〔結論〕ーこれが宇宙論的証明である。するとこの推論の小前提は経験を含み、大前提は経験一般から必然的な存在者の現実的存在への推論を含んでいる。それだからこの証明は、元来経験一切の可能的経験の対象は世界〔宇宙〕と呼ばれるところから、宇宙論的証明と称せられるのである。

カント著・篠田英雄訳、純粋理性批判(中)、第三章 神の存在の宇宙論的証明の不可能について、p.271、岩波文庫

私自身の実在というのは、近代西洋哲学の出発点である「我思うゆえに我在り」から導かれる命題で、その事実から絶対的に必然的な存在者としての神もいるに違いないというわけです。ところが、神=最高存在者は、ふと疑問をいだきます。

我々が一切の可能的存在者のうちの最高存在者と思いなす存在者は、『私は始めなく終りなく永遠に存在を続ける、私のほかには、また私の意志によってのみ存在するもののほかには、何ひとつ存在しない、しかしこの私はいったい何処からきたのか』と、いわば独語するのである。

カント著・篠田英雄訳、純粋理性批判(中)、第三章 神の存在の宇宙論的証明の不可能について、p.278、岩波文庫

ようするに

神「おれはどこからきたのか」

神の神「おれのもとからきた」

図にすると下になります。

となると、

神の神「おれはどこからきたのか」

神の神の神「おれのもとからきた」

と無限に続く神のマトリョーシカになってしまうので、非現実的で、この最高存在者としての神の存在は否定されます。

ちなみに、

「では、なぜ、なにかが存在するのか・・・」

と疑問に思われた方は、哲学の素養が筆者よりもあると思われますので、ぜひ哲学科で研究しましょう。

証明3「世界の存在の不可能性に由来する証明」

一時期日本で「なぜ世界は存在しないのか」が書店で話題になりました。

マルクス・ガブリエルの思考実験で有名なのは、AさんとBさんが山を見る時、

  • 山自体
  • Aさんが見ている山
  • Bさんが見ている山

の三つが存在するという立場を取る「新しい実在論」に関するものがあります。

前者だけだと古い実在論、後者だけだと認識論、両方合わせてがポイントです。

この本の中で、もうひとつわかりやすい思考実験があるので取り上げてみます。

まず、わたしたちの得た最初の大事な認識、すなわち意味の場の存在論の等式を、もういちど取り上げておきましょう。

存在すること=何らかの意味の場に現象すること

(中略)

第1章で見たように、世界は、すべての領域の領域として考えれば最もうまく捉えることができます。これはハイデガーに帰することのできる捉え方でしたが、ここで、この捉え方をもっと正確にして、こう言い直すことができますー世界とは、すべての意味の場の意味の場、つまりそれ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場であり、もってすべとを包括する領域である、と。これはいわば世界の究極の定義ですから、もういちど強調して記しておき、用語集に載せることにしましょう。世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である。

すると、存在するいっさいのものは、世界のなかに存在していることになります。世界こそ、いっさいの物ごとが起こる領域にほかならないからです。世界のそとには何も存在しません。世界のそとにあると考えられるものも、そう考えられるものとして世界のなかに存在しています。かくして、存在するということには、つねに何らかの場所の規定が含まれていることになります。存在するとは、何かが何らかの意味の場に現象することだからです。だとすると、こう問わなければなりませんー世界が存在しているとすれば、その世界はどのような意味の場に現象するのだろうか、と。世界は意味の場S1に現象すると仮定してみましょう。ここでS1は、さまざまな意味の場のひとつです。つまりS1と並んで、S2・S3……と複数の意味の場が存在しています。ほかの意味の場と並んで存在しているS1に現象しているのであれば、世界は存在している。このようなことは可能でしょうか。

世界とは、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場のことでした。とすればS1には、ほかのいっさいの意味の場が、いわばS1に包摂される副次的な場として現象していることになります。S1には世界が現象しており、その世界にはすべてが現象しているはずだからです。

とすると、S2・S3……の意味の場は、いずれもS1と並んで現象しているだけでなく、S1のなかに現象していることになります。S1には世界が現象しており、定義上、その世界にはすべてが現象しているはずだからです。したがって、たとえばS2は、二度存在していることになります。一度は世界と並んで、もう一度は世界のなかにです。しかし、S2が世界と並んで存在するはずがありません。世界と並んでーつまり世界のそとにー存在するものなど、何もないからです。同じことがS3にも、またそれ以外のいっさいの意味の場にも当てはまります。したがって、ほかのさまざまな意味の場と並んで現象する何らかの意味の場に世界が現象するということ、そんなことはそもそも不可能です。もしそんなことが可能だということになれば、ほかのさまざまな意味の場はおよそ存在することができないということになるからです。というわけで、次の点は確認できましたー世界は、世界のなかに現れてはこない。

さらに、もうひとつ別の問題もあります。世界がS1に現象するのだとすると、それではS1自身はどこに現象するのでしょうか。すべての意味の場がそのなかに現象する意味の場が世界だとすると、S1のなかに現象するはずの世界のなかに、S1それ自身が現象しなければならないことになってしまいます。込み入った厄介な状況です。

世界がそのなかに現象しているS1、そのS1がそのなかに現象している世界は、S1のなかに現象している世界とは明らかに違います。現象している世界は、当の世界が現象する場としての世界と同じではありません。

それだけではありません。ほかのすべての意味の場も、世界のなかに現象します。ほかのすべての意味の場も、ともに同じ図に含まれるのです。すると、どの意味の場も、やはり二つのポジションをもって現れてくることになってしまいます。一方ではS1のなかの「世界」のなかに現れ、他方ではS1と並んで現れてくるわけです。

マルクスガブリエル著・清水一浩訳、なぜ世界は存在しないのか、pp.108-111、講談社選書メチエ

こちらも図にすると、次のようになります。

人生の価値の不在証明とも、世界の不在証明とも類似の構造であることが直感的に分かると思います。

「世界がS1のなかに存在する」と仮定して、世界を「すべてが存在する場所」と定義すると、そのS1が世界のなかにふくまれることになり、その外側の世界のなかにS2やS3もあると、

  • S1、S2、S3を含む世界(外側)
  • S1、S2、S3を含まない世界(内側)

の二種類の世界が存在することになり、矛盾するから「世界は存在しない」というタイトルが証明されます。

ここでも、世界のマトリョーシカが誕生し、本当の外部が無限遠に想定されることで反証されるところがポイントです。

人生の価値(意味)は自分で決めるしかない

以上の三つの証明から、「自分の人生があらゆるもののなかで外部に存在するとするなら、自分自身の人生の価値(意味)が存在するかどうかはわからないのではないか」ということが考えられました。

ということは、裏返せば、「自分自身の人生の価値(意味)」を自分の外部に求めても決して見つからないであろう」ということも推論できます。

ひとりひとりの人生(命)が独立して存在するのであれば、人生の価値(意味)は、(自己言及的に)自己評価することしかできないこと、さらには、他者評価(他人の人生に価値や意味があるかないか決めること)は誰にもできない、ということも「道徳」ではなく「論理」の観点から示されました。

よく「自己肯定感を高めるにはどうすればよいか」という言説が話題になりますが、「自己肯定感を高めるには、自己肯定感を高めるしかない」という一種のトートロジーが存在するとも言えます。もちろん、個々の「ライフハック」は役に立つかもしれませんが、最終的には「自分の人生の価値は自分が判断基準となって決めるのだ」という主体性が重要になるのではないでしょうか。

この視点は、他のことにも応用できます。

例えば、「作者」と「作品」を切り分けて考えるか否か?という論争です。

以上の価値論を踏まえればわかりますが、「作品の価値」はそれぞれの人間が自由にそれぞれの判断基準に基づいて評価することができる一方、あくまで「生命」であり「人間」である「作者の(人生の)価値」は、他者が決められるような問題ではありません。

また、クリエイターがSNSの反応(いいねやコメント、リツイートなど)やその他の利得(作品や活動から得られる知名度や収益)を承認欲求や金銭的欲求などに従って追い求めた結果、

  • 望んだ反応が得られなかった時に「作品の価値」=「作者の価値」と考えて落ち込んでしまう
  • 自分自身の賞賛や批判に一喜一憂した結果、精神的に不調になる、場合によっては狂っていく
  • 注目を集めるためにどんどん思想や表現が先鋭化した結果、とりかえしのつかない状況になる

といった「悲劇」も散見されます。

こうしたことを防ぐ上でも、「作品」と「作者」の存在価値(意味)を切り離して考えることに一定の効果があること、その論拠として本記事で書いたようなロジックが背後に隠れていると自覚することは、クリエイターの人生を幸福なものにすると考えられます。(とはいえ、現実問題として「数字」を叩き出す場面があることも理解します。しかし、表現し続けるために生きていること必須である以上、生き抜くことが優先されることに異論はないと考えます。)

構造的な人生の価値の不在に対する二つのアプローチ

  • 人生の価値(意味)
  • 世界

こうした人間を超越したものが客観的に存在することは否定されていまいました。

しかし、超越した何かを信じたくなるのが、人間の性でもあります。

かのスティーブ・ジョブズも、スタンフォード大学の講演で、

「後になって人生の点と点がつながるから、運命やカルマ、何かを信じなさい」

といいました。

Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backward. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.

Stanford News, ‘You’ve got to find what you love,’ Jobs says

絶対的なものがないとなら、(神が死んだなら)

人間はなにを信じて生きればいいのでしょうか。

こうした状況では、大きく分けて二つのアプローチがあります。

超人主義的アプローチ

一つ目は、超人主義的アプローチです。

要するに、「超人になりましょう」ムーブです。

最初に言い出したのはニーチェで、次の言葉に本質が凝縮されています。

あなたがた創造者たちよ!この「……のために」を忘れることだ。こうした「……のために」「……の目的で」「……の理由で」などでは決して行わないということを、まさしくあなたの創造の徳は要求しているのだ。

ニーチェ著・氷上英廣訳、ツァラトゥストラはこう言った(下)、pp.262-263、岩波文庫

目的や意味を考えず、ただただ自らの欲望に従って創造することをよしとしています。

とはいえ、ニーチェをそのまま引用するのも大変なので、日本人哲学者によるアレンジの入ったもので理解を進めてみます。

人が生れるのも死ぬのも、苦しむのも楽しむのも、何の意味もない。人類も地球もどうせ消滅するのだから、この世のすべてに意味はない。だからこそ好き勝手な価値を創造し、自分の奥底から湧き出す欲望の実現に励むのだ。

中島義道、人生に生きる価値はない、裏表紙、新潮文庫

と、何やら物騒なことを語るのが、中島節とでも言うのでしょうか。

確かに、いつか宇宙は滅びるでしょうから、「持続可能性」というのは、人間がいつまでも繁栄していたいという、人間中心主義的で非現実的なエゴイズムの側面があります。中には、そう言っておいたほうが社会適応度が高いように装えるからそう言っている場合もあるかもしれませんが。

中島氏の文章もだいぶきついのですが、ニーチェはその数倍きついです。

中島氏ですら、「ニーチェにはうんざり」と語っています。

ニーチェは、私にとってずっと違和感の塊であった。大学生になってから折に触れて読み漁ったが、何も摑めない。いや、いつも言い表しがたい不快感がからだに沈殿した。あえて表現してみれば、その大げさで深刻な人生や哲学への姿勢、その他人を見下した傲慢至極な態度、そしてーこれが決定的であるがーそれでいて精緻とは程遠い大雑把な言語表現等に辟易していた。

自分の人生行路を大げさに意味づけるやり方にはうんざりした。ワグナーとの決別がどうしたというのだ!コジマや、ルー・ザロメに対する失恋がどうたというのだ!ざらにある話ではないか。若い頃の私は、彼のホットな人間関係への期待が馬鹿げて見えた。ずいぶんカッコ悪いと思ったのである。ニーチェの外見も、著書も、書簡も、そのナマの人生も、どこからどこまでカッコ悪い。もてない男の典型であり、それは、彼が他人に期待しすぎるからなのだ。

(中略)

ニーチェにとって、あらゆる他人は自分より優れた者か劣った者かだけである。ワグナーとの決裂によって、周囲には自分より優れた者が、見当たらないと悟ったとき、すべての友人との関係は終結し、残ったのはニーチェに一方的に仕えたペーター・ガストだけであった。対等な友情を維持するには、彼は他人という存在そのものに対する関心が薄すぎたようだ。

いまなお、こう書いていても、彼を好きにはなれない。改めて、自己愛に塗れた寂しい人格だと思う。

ヤスパースは医者らしくニーチェの病状を細かく分析しているが、慢性の胃炎、ときに失神するほどの頭痛、次第に失われていく視力、それに完全な狂気の恐れ……とすさまじい。

二十五歳でバーゼル大学の教授という幸運なスタートを切った人生であったが、四十歳の頃はもうあらゆる面でガタが来ていた。すでに大学も辞めた。友人も失った。一人の女性もものにすることはできなかった。家庭を持つことなど夢のまた夢。それに、絶えざる肉体の苦痛。理解者もいなくなった。著作もちっとも売れない。まさに、この世の不幸をまとめて背負わされたような男である。

最近、ニーチェという男に興味を引かれるのは、この凄まじい不幸のゆえかもしれない。こうした不幸を背負いながら、「永遠回帰」という思想に撃たれたのであり、「運命愛」に、「超人」に、「力への意志」にたどり着いたのだ。

哲学の研究者の中には、こういう「私的事情」を切り離してその思想を語る者が多いが、それは間違いである。ニーチェの不幸と切り離して、これらの概念を理解することはできない。クロソウスキーは『ツァラトゥストラ』には、ルー・ザロメとの失恋の痛手が投影されていると言っているが、不幸を山のように背負った男にとって、それは単に一つのエピソードに過ぎないであろう。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.177-180、新潮文庫

たしかに、ニーチェは不幸な境遇にいたのも事実で、だからこそこのようなきわきわな思想を生み出したのかもしれません。

ニーチェは当時知られていたエネルギー保存則から「エネルギーが有限で、無限の時間が宇宙を流れるなら、無限に同じパターンが繰り返されるのではないか」などと考えて、「永遠回帰=すべてが永遠に繰り返されている」という思想に到達しました。

中島氏もそれが唐突に「わかった」そうです。最新の宇宙論や量子論から見て、ニーチェの思想が「トンデモ理論」なのかは読者の皆様の判断に一任するとして、デジャブの時に「今のは永遠回帰・・・?」と考えるのはなかなかロマンがあります。

私のニーチェとの「出会い」は、「永遠回帰」の思想がある時はっとわかったからである。それは、単純この上ない真理であって、この世の何ものもいかなる意味(目的)もない、ということ。すべては偶然である、いや偶然とは必然との関係においてある用語だから、すべてはただ生ずるだけなのだ。

だが、ほとんどの人はこのことを承認しようとしない。打ち消そうとしても、気がつくと人生に何かしらの意味=目的を求めてしまっている。そうした弱さを完全に拒否すること、それをニーチェは延々と言い続けているだけである。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.180-181、新潮文庫

ニーチェの思想は「強い人間」に向けて書かれているのは確かで、普通はなにかを信じながらでないとまともな理性を保って生きられないです。ただ、ニーチェは発狂しているので、どこまで彼の思想を取り入れるかもむずかしいところがあります。

みな「気晴らし」なのだ。オリンピックもノーベル賞も、「死」に怯え、人生の意味を探っても何も見いだせない人が、虚しさに押しつぶされてしまわないように、自らを騙し他人を騙して必死にすがっている藁なのである。この藁から手を放すことは恐ろしい。だから、藁でできた「気晴らし」ゲームのカラクリを見破った者を見つけるや否や、思わず殴りかかるのだ。抹殺しようとさえするのである。

昨日(十月二日)、ノーベル賞受賞者三人をパネリストに「環境問題を科学は救えるか」というテーマのテレビ番組を観た。壇上の「英雄」たちは会場からのさまざまな質問に丁寧に答えていた。最後に一人のノーベル賞受賞者がしみじみ訴えた。「とにかく、きみたちがこれから六十年、七十年生きていく地球を大切にしてください」。そして、司会者がこの「すばらしい」メッセージを賞賛して幕。ああ、また大掛かりな「気晴らし」のデモンストレーションだ。あなた方は「そのあとは?」と考えようとしないのですか?そのあとは、どんなに地球を大切にしても、自分は死んでしまうのですよ。無に帰してしまうのですよ。

中島義道、人生に生きる価値はない、p.227、新潮文庫

ここのくだりは、「いや〜オリンピックの選手も、ノーベル賞の受賞者も、別に名誉や名声のためだけではなくて、その競技や研究への情熱に燃えているとか、自分の能力の極限を追求したいだとかで動いていて、、少なくとも「気晴らし」でやっている人間には、到達できない地点にいるだろう」と思ってしまいますが、とはいえ、分かりやすい評価基準に従っていることに安心している人間は「気晴らし」をしているように哲学者には見えるのでしょう。

何の見返りも求めず、何の目的もなく、何の意味もなく、ただひたすら起こるべくして起こること、そのこと自体を意志すること、これが、「力への意志」なのである。それは言い換えれば、他の何かへと意味づけることなく、ただ意味がないということの「意味」だけを目指すこと、目的がないということだけを生きる目的にすることである。それが、いかなることが生じようとも”Ja!”と肯定する「運命愛」にほかならず、それを文字通り実践して生きている人間が「超人」なのだ。

超人は没落しなければならない。世のあらゆる者、なかんずく善良な弱者がこぞって意味=目的を求めている傾きにあって、ただゼロであることを目指すだけで、その傾きの座標にある人から見れば、「下って」いくこと、没落していくことになるのだから。

中島義道、人生に生きる価値はない、p.182、新潮文庫

ここでは、

  • 運命愛
  • 力への意志

のキーワードがでてきました。

意味がわからなくても仕方ないとこですが、一般的な感覚では、

「おれってすげー!自分の運命マジラブ♡もっと没落、没落!」

みたいに超人は狂ったように見えるのではないでしょうか。

羨ましくなるほどの自己肯定感の持ち主ということです。

だから、ニーチェは自己啓発でよく題材にされるのです。

ニーチェの言葉は、改めて「お前はどのように生きてきたのか?」という問いを私に突きつける。私は、ニーチェと異なり、すこぶる健康で、定職も与えられ、家庭も与えられた(実質的には崩壊しているが)。しかし、肝心の「哲学」に関しては、専門家からほとんど評価されなかった。来年三月で大学を辞めるが、哲学科のポストは、永遠に回ってこなかった。ウィーンで学位をとり、人より十年遅れて二十五年間必死の思いでがんばってきたが、やはり基本のところで認められなかった。

そして、それもまた不当ではないのだ。いまごろやっとわかったが、学会や大学とは学問する場だが、所詮自分は学問に向いていない。学問しない者が学会にいることはおかしいし、大学にいることはもっとおかしい。潔く「自由業」に身を転じるべきなのである。

しかも、(自分のずるさも不甲斐なさも計算間違いも含めて)このすべては起こるべくして起こったのだから、それをすべて肯定し、「意志」しなければならない。そして、残り少ないこれからの人生は、もっと真剣に没落しなければならない。

没落の指標の一つとして、先日すべての学会(哲学会、日本哲学会、日本カント協会)を退会した。ついでに学士会も。ありとあらゆるエリート集団から脱退すること。ありとあらゆる職業哲学者たちから距離を保つこと。ありとあらゆる世俗の名誉を拒否すること。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.183-184、新潮文庫

「没落」が「学会の退会」を意味するものか判断しかねますが、とりあえず世間体を捨て去るということでしょう。

キリスト教とプラトニズムへの怨念をニーチェと共有していない私の体感にそった理解では、ニヒリズムとは、ただこの世で生起することはすべて何の意味(目的)もないこと、このことをとことん「味わい尽くす」ことだけである。

慰められたい、救われたい、安心したい、楽になりたい……という欺瞞的甘みを一滴も加えないで、この世で生起するあらゆる事柄を飲み尽くすこと。しかし、このことは虚心坦懐に事柄を観察するだけでは、心を清澄に保つだけでは、到底達せられない。われわれは、気がつくと、またずるずる何らかの意味を求めてしまうのだから。

そういう力に抵抗するには、さらに強い力が必要である。「力への意志」とは、私にとってこの単純な意味をおいてほかにない。それは、さしあたり「書くこと」であった。不特定多数の他人に、私の体内を巡る血で書いた言葉を一方的に投げつけること、そしてそれが少なからぬ他人の体内に食い込み、血を流させること、こうして一定の言語空間において「力」を獲得すること。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.187-188、新潮文庫

「無意味」を肯定して、ただただ「書く」ことで「力」を誇示する、しかもそれを他人に一方的にぶつけるのが哲学者の仕事だとしたら、かなり迷惑なような・・・

そして、もうひとつのキーワード「ニヒリズム」についても、五段階あると言います。

  1. ユダヤ=キリスト教とプラトニズム
  2. 神が死んだ、生きる意味が欲しい
  3. あきらめ
  4. 超人へ
  5. 気付いたら明るくなってた

ニーチェが自分に課した使命とは、「何もないのにあるかのように見せかける」詐欺集団を告発することであった。それは、二〇〇〇年以上にわたってヨーロッパに君臨してきたユダヤ=キリスト教とプラトニズムである。(ニヒリズムの第一形態)。

しかも、その嘘を暴いてもやはりわれわれはその詐欺師たちの吠え声の残響のうちにあって、何か別の意味(目的)を求めてしまう。とりわけ、弱い善人どもはわめき散らす。「神が死んだとすると、生きてはいけない!たとえ嘘でもいいから、幻でもいいから、生きる意味がほしい!」(ニヒリズムの第二形態)。

そしてやがて彼らはどんなに叫んでもそれが与えられないと悟ると、首をうなだれて、今度は全速力で「あきらめ」の運動を開始するのだ。何に対しても傷つかないためには、何も期待しないほうがいい。だまされないためには、何も求めないほうがいい。こうして、すべてを受け入れすべてに耐えるのだ。これをニーチェは「弱さのニヒリズム」あるいは「受動的ニヒリズム」と呼ぶ(ニヒリズムの第三形態)。

これに対して、あらゆるものが無意味であることに耐え、そのことを意志し、超人への道を歩むこと、これが「強さのニヒリズム」あるいは「能動的ニヒリズム」である(ニヒリズムの第四形態)。こう書きながら、じつは私にはその意味するところがぼんやりとしかわからないのであるが……。

(中略)

人が生まれるのも死ぬのも、苦しむのも、楽しむのも、何の意味もないと小学生のころから思っていたのだが、ここ十年ほど、他人の顰蹙も省みず、そもそも人生は生きるに値しないこと、何をしてもどうせ死んでしまうことその限り不幸であること、それから眼を離して生きていることが最も不幸であることなど、繰り返し書き散らしているうちに、奇妙に「明るい」気分が私の体内に育っていった。

こういうことを語ることが厳しく禁じられていたころ、私は生きるのが辛かった。こんな「あたりまえ」のことを語ってはいけないという周囲の空気が、私を窒息させていた。しかし、いったん語りだしてみると、人生は瞬時も生きるに値しないことはますます確かになるのに、ー自他の流す血を吸って(?)ーなぜか私は明るくなっていったのである。「自由になっていった」と言い換えてもいい。そんなころ、私の中で「明るいニヒリズム」という言葉が煌き出した(ニヒリズム第五形態)。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.185-188、新潮文庫

この「明るい」とは何かというと、どうせ意味なんてないんだから、完ぺきにできなくてもいいから、やってみるか、という境地です。

「明るいニヒリズム」に最も近いところにカントがいる。

カントによれば、われわれ人間は「課せられているが答えられない問い」に搦めとられている。

それは

「神はいるのか?」

「魂は不滅なのか?」

「自由(善悪)はあるのか?」

という三つの問いである。

われわれはこれらが永遠に答えられないことを知りながら、執拗に問い続ける。なぜなら、もしわれわれが誠実であろうとするならば、これらに「関心」を抱かざるをえないからである。

これはニヒリズムであろうか?やはりそうであろう。なぜなら、われわれはけっして真理に至りえないことを知りつつ、それを求めざるをえないのだから。だが、ここで「弱さのニヒリズム」からの奇妙な反転が起こる。

だから、そんな問いなど忘れてしまおうでもなく、もっと有益なことをしようでもなく、むしろ何も報われないからこそ、懸命に真理を求めて問い続ける、という生き方である。それって結構すばらしい。

数年前、『悪について』(岩波新書)において、カントの「根本悪」について掘り下げて考えてみたが、われわれはどんなに努力しても「道徳的に善くはなれない」というカントの残酷な教えを「ああ、そうだなあ」と全身で呟くように納得してードストエフスキーの主人公のように絶望したのではなくーますますカントに惹かれていった。

道徳的善さの核心に「誠実さ」がある。だから、カント倫理学とは、どうあがいてもわれわれは真に誠実になれないという教えでもある。私はこれを知って、どうせ真に誠実になれないのなら、できるかぎり誠実になろうと思い、俄然明るくなっていったのである。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.189-190、新潮文庫

ようやく超人主義的アプローチも一通り、説明し終えました。

タイトルも、つけてから、思い入れが出てきたとのことです。

「人生に生きる価値はない」というタイトルは、(単行本の「あとがき」にも書いたように)編集者がつけたものであるが、その後、何度も眺めているうちに、印象が微妙に変わってきた。「価値」とは「意味」とか「目的」と言い換えてもいいものだが、「人生に(もともと)生きる価値はない」から人生に絶望するのではない。そういう輩は清涼飲料水のような、なんとお手軽な「価値」を求めていることだろう?自分を誤魔化さなければ、誰でも人生におけるどんな快楽も、どんな満足も、どんな充実感も、すぐに色褪せることは知っているはずだ。だから、私はある時からそのような安直な価値を求めるのはやめて、もっと「欲深く」なろうと決意した。人生に(すでに決まった)生きる価値はないからこそ、自分で好き勝手な価値を創造し、それを人生にまるごと付与するのだ。いかなる枠もなく、自分の奥底から湧き出すものを正確にとらえて、その欲望の実現に励むのだ(これがニーチェの言う価値創造する「超人」の境地にほかならない)。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.270-271、新潮文庫

普通の記事なら、ここで、「よし、超人を目指そう」で終えるのですが、すみません。まだ全体の四分の一くらいです。

実存分析的アプローチ

ここからはかなり「重い」内容になります。

「重い」というのは、「深刻」ということです。

最初に、中島氏がニーチェを当初はためらった理由をみてみます。

私にとって、今回のニーチェを受容に至るまでの準備期間は相当長かった。すべてが偶然であるとの実感は強かった。地震が起きて何万人が死ぬのも、帰宅したら妻子が殺されているのも、ただそうなったに過ぎない。いかなる背後の(スピリチュアルな)意味もないのである。

こうしたことをうすうす感づいているのに、断じてそう言わない善人たちに対する嫌悪感(いや嘔吐感)も相当強かった。

みな、そう言ってしまうと耐えられなくなるから、嘘を言い合っているのだ。しかし、この嘘ゲームを拒否すると、社会から排斥される。それは厭なので、人生を「半分」だけ降りて、徹底抗戦に出ることにしたのである。

中島義道、人生に生きる価値はない、pp.182-183、新潮文庫

世の中には、どう考えても悪いことをしていないのに(善なのに)不幸な事件や事故などで大切な人やものを失ってしまうことがあります。

そのたびに、

「なんでこんな目にあうのか」

と運命を恨むことがあります。

中島氏は、そうした絶望に落ち込んでいる人に対して、

「その不幸に意味なんかないよ」

という立場をとっています。しかし、仮にそう思ったとしても、不幸で苦しんでいる人の前で言えるかというと、まず言えないでしょう。

ニーチェは不幸だったから、心の拠り所として「超人思想」が芽生えたのでしょう。そして、ニーチェは強い人間だったから、それを信じることができた。

しかし、普通の人間は弱い。本当に追い詰められた時に

「すべてに意味はない」

とわりきって対処できるようにはできてないのです。

では、絶望の底に陥ったら、なにを信じればよいのか。

そこで、多くの深い苦しみを抱えた人間が最終的に救いを見出したのが、ナチスの迫害のなかで九死に一生を得た、収容所で地獄を体験し、妊娠中の妻もナチスに中絶させられ、殺されたという悲惨な状況のなかでも、希望をいだき続けた、精神科医ヴィクトール・フランクルの実存分析的アプローチです。

その要点は、次の言葉に凝縮されています。

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

V・E・フランクル著、池田香代子訳、新板 夜と霧、p.134、みすず書房

ここで重要なキーワードとして「自分を待っている」存在です。

ここでも、前のセクションと同様に、最初は日本人による簡単な説明から理解を深めてみます。

紹介する本は諸富祥彦氏の解説書「知の教科書フランクル」で、筆者は浪人時代に予備校講師から「辛い時に読むと良い」と教わったのでした。(予備校で教わることなのか・・・)また、明治大学で諸富氏の講演もきいたことがありますが、ご本人はなかなかユニークな先生でした。

最初に、現代日本の生命の弱体化について触れられます。

「生命」の弱体化とでも言うべき現象が、今、この国、日本では起きている。生命そのものが手ごたえの希薄なものになりつつある。生命の濃度そのものが、極端に希薄化しつつあると言ってもよい。その中で、「人生の意味」を問い始める人が増えてきている。「そもそも人生というものにはどんな意味があるのか」という哲学的な問いを抱える人もいるが、大方はそうではない。

これまでの人生を振り返ったとき、「そもそもこの私の人生にいったい何か意味など、あるのか」という実感にもとづいた問いが生まれてくるのである。

(中略)

めんどうくさい。ほんとうに、めんどうくさい。これが、あれが、めんどうくさい、というのではない。すべてがめんどうくさい。朝起きることも、歯を磨くことも、もちろん職場に行くことも、風呂に入ることも、寝ることも……生きてあること、この日常的な営みのすべてがめんどうくさくて仕方がない。すべてを投げ出してしまいたい……

諸富祥彦、知の教科書 フランクル、pp.18-19、講談社選書メチエ

疲れていると、風呂に入るなど、生活習慣を忘れてしまうことがあります。

いわゆる「セルフ・ネグレクト」という心理で、病のサインにもなります。

そしてその病に「病名がつかないまま」なんとなく苦しむ人が多いのです。

ヴィクトール・フランクルの人間観の最大の特徴。それは、人間存在を「苦悩する存在」として捉えた点にある。ここが、現代人がフランクルに共感する最大の理由の一つであろう。私たちの多くは、日々、悩み苦しみを抱えている。私のもとを訪れたあるクライアントの方は語った。

「私は、日々、がけっぷちで生きています。なんとか、かんとか、生きしのいでいるのです。

うつ病とか、パニック障害になるとか、わかりやすい病名がつくと、メンタルクリニックなど行けるところがあると思うんです。

だけど、私のように、何の精神症状も出てなくて、だから病気とは診断されていないけれども、死にたいくらいつらい日々を生きている人間は、行くところがないんです。

どんなにつらくても、うつ病でもなんでもないから、精神科にも行けない。

一人、誰にも理解してもらえない悩み苦しみを抱えているしか、ないんです。

そしてこんな、私のような人間、どこにも行くことができずに悩み苦しんでいる人間がけっこうたくさん、この世界にはいるように思えるんです。」

(中略)

フランクルの本は、そんな、ひとり生きづらさを抱えて生きている人にとっての「対話の相手」である。

それは、フランクルが人間存在の本質は「悩み苦しむこと」にあると考え、その「ただただ、悩み苦しむこと自体」にすでに意味がある、と考えたからである。悩みや問題の「解決」に意味があるのではない。「答え」が重要なのではない。

「こんなこと、悩んでいて、どうなるんだろう」と自分でも思う。そんな悩み苦しみを多くの現代人は抱えて生きているが、「そんなあなたの悩み苦しみには、それ自体、大きな意味があるんですよ」とそっと手を差し伸べ、肯定してくれる。それが、多くの読者にとってのフランクルという存在である。

諸富祥彦、知の教科書 フランクル、pp.114-115、講談社選書メチエ

「悩むことには価値がある」

以下で取り上げる「態度価値」につながるキーワードです。

  • どのような創造をするか(創造価値)
  • どのような体験をするか(体験価値)

で人生の価値(意味)を計ってしまいがちですが、

  • どのような態度をとるか(態度価値)

も、各人の人生で問われている、ということです。

生命の意味に関する問題を論じた際に、われわれは全く一般的に三つの可能な価値のカテゴリーを区別した。すなわち創造価値、体験価値、態度価値である。創造価値は行動によって実現化され、体験価値は世界(自然、芸術)の受動的な受容によって自我の中に現実化される。それに対して態度価値は或る変化しえないもの、或る運命的なもの、がそのまま受け入れられねばならないような場合には到るところ、実現化されるのである。人間がいかにかかる運命的なものを自らに引き受けるかというその様式において、計り難く豊かな価値可能性が生じるのである。すなわち創造や人生の喜びの中に価値は求められるばかりでなく、また苦悩においてすら価値は実現されるのである。

かかる考え方はすべての浅薄な功利論的倫理学にとっては全く無縁である。しかし人間存在の価値と尊厳とに関するわれわれの日常的な、しかし根源的な判断を振り返ってみるならば、成功とか効果とかに全く無関係になされる深い体験があるのに気がつくであろう。

V・E・フランクル著、霜山徳爾訳、死と愛 実存分析入門、pp.120-121、みすず書房

辛い時に「創造」や「体験」を要求し、苦悩に意味を見いださないニーチェと異なり、フランクルは「悩み、苦しむことしかできないくらいひどい状況」において、真価を発揮します。

フランクルの著作を読むことを通して、人はおのずと、自己の内面が空虚であることを見つめ、そして人生の意味の再発見に取り組んでいく過程を援助される。すなわち、フランクルの著作を読むという行為は、読者にとって一種の心理療法としての「読書療法」的な意味を持つのである。

人生、いろいろなことがうまくいかず、苦しいことの連続のように思えることも少なくない。しかも、心理療法家である私がカウンセリングをしているといつも思うのだが、人生、いったん悪いことが起こり始めると、これでもかというくらいに、連鎖して悪いことが起こっていくものだ。いくらなんでも、神様、それはやりすぎだろう。私がこの人だったら、とうに音をあげている。すごいな、この人。よく耐えられるな……と。そんな経緯に似た気持ちをクライアントに抱くことが少なくない。

しかし当然ながら、当人にしてみれば、たまったものではない。天を仰ぎ、運命を呪いたい気持ちになることもないわけではないだろう。「どうして、この私にばかり、こんなことが次々と起こるのだ……」と、運命への怒りのような呪いのような気持ちを抱いてつぶやきたくなったことも一度や二度ではないだろう。

フランクルの著作はそんなときに、とびきり効く。フランクルの言葉は、そんな人生を諦め絶望しかけた人々の魂を揺さぶる力を持っている。人生を諦めかけ、自暴自棄になり、「もう、すべてを投げ出してしまいたい」と思っている。そんな人の魂を揺さぶって、「もう少し、生きてみよう」という思いを掻き立てる力を持っているのだ。

それがフランクルの思想の持つ「力」だ。

諸富祥彦、知の教科書 フランクル、pp.11-12、講談社選書メチエ

「読書療法」というのも実際そうで、何か悩んだ時にフランクルの本で目次から自分と似たケースを探したりすると、それに真摯に答えた内容がすっと頭に入ってきて、深く悩んでいるのは自分だけではないという孤独からの解放が実感できます。

せっかくなので、フランクルの方は、実際の古典からいくつか重要な場面を取り上げてみます。

一つ目は、自殺を考えている二人の人間からフランクルが相談を受け、希死念慮を思いとどまらせるシーンです。

あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠くの連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考え方を百八〇度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。

V・E・フランクル著、山田邦男/松田美佳訳、それでも人生にイエスと言う、pp.25-26、春秋社
  • 自分は人生になにを期待するか

から、

  • 人生は自分になにを期待するか

と主語を逆転することで、絶望のさなかで気づかなかった大切なことに気づけるようになるということが、天動説から地動説へと視点の中心を変えた発想と共通するものがあるということです。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出した私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことなのです。

こう考えると、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。

V・E・フランクル著、山田邦男/松田美佳訳、それでも人生にイエスと言う、pp.27-28、春秋社

ここでの「人生からの問い」というものは、一種の「超越的存在」を想定します。そのため、「人生の価値や意味、神、世界」を論理的には否定しつつ、しかし、それでも何か自分の理解を超えたなにものかがあるという想定をすることが、一種の救いになるという点が実存分析的アプローチのポイントです。

私たちは、人生が出した問いに答えることによって、その瞬間の意味を実現することができます。ところで、人生が私たちに出す問いは、たんに、そのときどきに応じてちがったものになるだけではありません。その人に応じてもまたちがったものになるのです。人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています。

ですから、生きる意味の問題は、まったく具体的に問われるのでなければ、誤った取り上げかたをしていることになるということもわかります。つまり、それは、具体的なここと今において問われるのでなければなりません。一般的に人生「というもの」の意味「というもの」を問題にするなどということは、こういうものの見方からすると、どうしてもとんちんかんなものに思われます。

V・E・フランクル著、山田邦男/松田美佳訳、それでも人生にイエスと言う、pp.29-30、春秋社

すなわち、「人生とは〇〇である」みたいな抽象化されたものではなく、あくまで具体的な問いが発せられており、例えば、

  • 宿題をする
  • 仕事をする
  • 会話をする

など、一見、人生などという大それたこととは大きく隔たっているようなことのなかにも、それと誠実に向き合うことにより「人生の問い」に「具体的な行動」を通じて答えていく姿勢が求められているということです。

そして、その課題の大小も、ひとりひとり違うけれど、それ以上に大切なのは、「どこまで自分の問題と向き合っているか」という態度です。

ある日、ひとりの青年が私のところにきて、ほかでもない生きる意味の問題、というより生きる意味がないという問題のことで私と議論しました。そのとき、その青年は、つぎのような意義を唱えました。

「あなたはなんとでもいえますよ。あなたは現に、相談所を創設されたし、人々を手助けしたり、立ち直らせたりしている。でも、私はといえば……。私をどういう人間だとお思いですか。私の職業をなんだとお思いですか。一介の洋服屋の店員ですよ。私はどうしたらいいんですか。私は、どうすれば人生を意味のあるものにできるんですか。」

この男が忘れていたのは、なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが、果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。

V・E・フランクル著、山田邦男/松田美佳訳、それでも人生にイエスと言う、pp.31-32、春秋社

そして、ニーチェは「人生は無意味だ」と断定しますが、フランクルは「その人のありかたによって、意味があることもないときもあるが、人生の最後の瞬間まで人生に意味を見出すことができる」と述べています。

そのときそのときに、どういうやりかたであっても、人生を、瞬間を意味のあるものにするかしないかという二者択一しかありません。ですから、そのときそのとき、どのように答えるか決断するしかりません。けれども、そのたびに、まったく具体的な問いが人生から私たちに出されています。

この事実から、こうしたすべてのことからつぎのことがわかります。人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は、「最後の息を引き取るまで」意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。

V・E・フランクル著、山田邦男/松田美佳訳、それでも人生にイエスと言う、p.43、春秋社

最後まで、どんなに絶望的な状況でも、人生を諦めてはいけない、ということです。

二つのアプローチを関連づける「意味・苦悩・絶望の公式」

ニーチェの超人主義的アプローチと、フランクルの実存分析的アプローチは、対照的な様相を持っていましたが、実は、ある公式で統一的に説明することができます。

その着想の発端は、TV番組「爆笑問題の爆問学問」でかつて紹介された、東京大学で障害学を研究している福島智氏の公式がヒントになっています。福島氏は18歳の時に目も見えず、耳も聞こえない「盲ろう者」になった方なのですが、そのなかでも希望を失うことなく、学び続け、今では先生をしています。そんな彼が救われたのもフランクルの思想で、フランクルによる「絶望とは意味のない苦悩だ」ということばから誕生した、単純な数式を式変形することから得られる内容となっています。

ナチスドイツの収容に入れられたヴィクトール・フランクルは「絶望=苦悩-意味」という公式が人間には成り立つと述べた。これは苦悩と絶望が同じではないということを示している。そして、苦悩には意味があることも示しており、私はこの主張に深い感銘を受けたのだった。

この話を踏まえて、上田先生が言った。「これは、苦悩が大きくてもそれに意味があれば、絶望が軽減されるという公式だと思います。一歩進めると、その意味が大きければ、絶望ではなく、希望になるということだと。苦悩が大きくても、それを引き受けて、より大きな意味付けができれば、それはマイナスの絶望、つまり希望になるのではないかと」

「絶望=苦悩-意味」の公式は、さまざまな形で読み変えることができる。

たとえば「絶望」を右辺に、「意味」を左辺に移すと、「意味=苦悩-絶望」となる。「絶望」を反転させたものは「希望」であり、「マイナスの絶望」とは、すなわち「希望」だ。

したがって「意味=苦悩-絶望」とは、「意味=苦悩+希望」ということではないかと、上田先生は述べたのである。

これは驚くべき洞察だ。

さらに先生は続けた。

「苦悩が大きくても、意味が大きければ単なる絶望じゃなくて、希望と勇気を与えることになると思います」

この感覚は私の体験とも共鳴する。

福島智、ことばは光、道友社

この説明をスライドで表すと、次の図になります。

すなわち、「人生の意味」とは、苦悩を抱えながらも、希望を持って生き抜くことです。

ところで、苦悩の対義語が快楽であり、ニーチェにとって「意味=0」であることから、次の式も得られます。

すなわち、ニーチェの超人とは、快楽への希望と、苦悩の絶望を体現した二面性のある存在である、と洞察できるのです。

「生きるに値しない命」かどうか他者が判断できないことの証明

福島智氏は障害者の共生について研究を重ねていましたが、そんななかで起きた相模原殺傷事件について、自分の問題として考えたと言います。

犯行に及んだのは、施設の元職員、植松聖死刑囚。「意思疎通できない障害者は生きる価値がない」という理由からでした。

福島さんはなんとも言えない不快な気持ちに襲われたと言います。

「事件の根底にあるものとして私が最初に思ったのは、これが『二重の殺人』だということですね。生物学的な肉体的な殺人という側面と、そうではなくて、この人が憎いからとか特別な理由があって殺したのではなくて、ただ単に重度の障害を持っているという属性がゆえに殺したという、その2つが合わさった二重の殺人だと思いました」(福島さん)

(中略)

なぜこのような犯行を起こしたのか?その真意を知りたい。

2018年9月、福島さんは拘置所にいる植松と接見しました。

「重い障害を持った人たちに対してどうしてあのような犯行を行ったんですかと尋ねました。すると彼は『あの人たちは人間ではないですから』と言って、人間じゃない根拠として意思疎通の問題を話しました。なぜ殺害する必要があるのかと尋ねると『そうしないと伝わりませんから』と言うので、誰に伝わらないのかと尋ねたら『社会の皆さんにです』と。重い障害を持った人は社会にとって不要だし殺さなければいけないという彼の思想、彼の考えを世の中に伝えたいということでした。」(福島さん)

福島さんは続けて、植松の印象をこう語ります。

「会ったときの印象で言うと、彼はエリートではない。しゃべり方や語彙や言葉の使い方などを見るかぎり、そこらへんにいる中途半端に勉強した、あるいはしてないような若者という印象です。犯行がヒトラーの政策との類似性を指摘されたときに彼はそのことに気付いていなかった、あるいはわからなかったみたいなこともあるので、そう考えるとより恐ろしいのかもしれない。彼は借り物の何かじゃなく自分自身で考えたり思ったりする直感から、この障害者を殺すという発想を出してきたのかもしれません。すごく恐ろしい感じですよね。やはり人間として思っていないんでしょうね」(福島さん)

NHK福祉情報サイトハートネット、盲ろうの教授 福島智 障害者殺傷事件を考える

ここで、ヒトラーの政策との類似性が指摘されていますが、この政策との直接的な関係はないものの、安楽死や優生思想との関連で語られている本があります。

ヒトラーのナチスが台頭した年、1920年にドイツの刑法学者カール・ビンディングと精神医学者アルフレート・ホッへが出版した、「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」(通称『解禁』)という本です。

2020年9月には相模原事件・安楽死論争・(パンデミック)トリアージについて考察する上で批判的に読むために新板の邦訳も出版されました。

『解禁』は、法学と医学の境界を流れる二つの伏流、「自殺」と「純粋安楽死」(臨終時の医師の裁量)を独自の観点から総合した「画期的」な理論である。

キリスト教世界では「自殺」は禁忌とされてきた。他方、臨終時の「純粋安楽死」は医師の裁量として認められてきた。ここで著者たちは「不治の病=本人にとっても周囲の人々や社会にとっても重荷」という観点を導入する。そしてこの観点から、自発的に意志する患者には安楽死を「死ぬ権利」として許容する一方で、意思表示のできない知的障碍者や精神障碍者には安楽死を積極的に奨励したのである。

そのどこが「画期的」だったのか。「自殺」は「不治の病」として病気扱いされ、この限定によって医療の世界で「安楽死」する「権利」となった。他方、臨終時に限定されていた医師の裁量が「不治の病」に拡大されたことから、意思を表明できない認知症老人や知的障害者、精神障碍者の安楽死が医療の世界で責務とされた。つまり、安楽死という名の「医師の手になる死」が医療の世界で初めて法的に正当化されたのである。

ここで鍵を握るのが「不治の病=本人にとっても周囲の人々や社会にとっても重荷」という観点である。この背後には能力差別を前提とする優生思想がある。「不治の病」が誰にとっても「重荷」であるなら、社会集団が窮乏状態にあるとき、その荷物は早急に処分されなければならない。これは社会的集団の積極的な責務である。

『解禁』は従来、ナチスの安楽死政策の文脈でのみ見られてきた。現在から振り返るなら、それは偏狭な見方といえる。『解禁』には「死ぬ権利」容認派の三つの論拠(自己決定、患者の利益、公正)がすべて揃い、しかも「不治の病=主客負担」論によって統合されている。つまり、能力差別論に基づく安楽死問題の総合理論なのである。

(*用語の選び方ひとつとっても慎重な吟味が必要である。たとえば表題は従来「生きるに値しない生命の抹殺の許容」で通ってきた。とくに「抹殺」という表現にはナチズムの思想がたっぷりと染み込んでいる。しかしテクストに即すかぎり、表題を含め、すべての言葉からナチズムの臭いをぬぐい去り、あらためて歴史の文脈のなかで慎重に選び直さなくてはならない。そこで「抹殺」については「終わらせる行為」を選んでみた。ただし、「生きるに値しない生命」については、あまりにも人口を膾炙しているため、「生命」をいっそう広がりのある「命」に替えただけで、そのままとせざるを得なかった。)

『解禁』は、医療のなかの自己決定と国家による包摂・排除とを統合した稀有の理論である。この理論の土台は能力差別であり、後述するように能力差別は社会集団の本性である。能力差別の現実を動かすことはたしかに困難である。しかし、『解禁』の論理と正面から対峙することが、少なくともその一歩になるはずだ。そこに『解禁』を精読する理由がある。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、pp.11-12、中公選書

『解禁』は二部構成となっています。

第一部では法律家による安楽死の是非に関する見解、第二部では医師による第一部の論評、というものとなっています。

ここでは、第一部の冒頭から本が出版された問題意識を取り上げてみます。

命を終わらせる行為(Lebensvernichtung)が許される(unverboten)のは、現行法がそうであるように緊急事態を除けば、相変わらず本人の自殺〔自己殺害〕(Selbsttotung)に限定されるべきか。それとも、他者(Nebenmenschen)による殺害(Totung)へと法的に拡大されるべきか、また、その場合にはどの程度の範囲までか。

この問題を論じようものなら、個々の事例に振り回された挙げ句、誰であっても自信のある見解など持てなくなるものである。そうなると勢い、情熱やその反対の過剰な疑念に決断が委ねられてしまうことにもなるが、やはりそれではいけない。むしろ、当該問題に対する賛否の論拠を慎重に法的に考量するなかで解決を見出すという姿勢こそが、これまで以上に必要とされよう。そうした確かな基礎のうえでのみ、論議を前進させることができるはずである。

したがって、私が最も重点を置くのは法律上の厳格な取り扱いである。それゆえまさしく、我々にとって確かな出発点となるのは現行法でしかない〔その場合には、次のような問いが立てられる〕。人を殺害することは、現行法上、緊急事態を除けば、今日どの程度まで解禁されるのか。そしてまた、「解禁(Freigabe)」という表現でいったい何が理解されるべきなのか。もちろんこの言葉は〔禁止を前提にして一部の行為だけを一定の条件でそこから外すという意味であるから〕殺害権(Totungsrechten)を承認することとはおよそ反対である。

ここでは殺害権はまったく論外である。

この点はあまりにしばしばまちがって理解されたり、実に不正確に把握されたりしているから、出発点を学問として明確なものにすることは、なおのこと必要なのである。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、pp.19-20、中公選書

すなわち、

  • 自分自身の殺害としての自殺は許容されている
  • しかし、他者の殺害(殺害権)は原則として認められない
  • それでは、どのような緊急事態において殺害が解禁されうるのか

という問題提起がなされます。以降では法的な解釈を進めています。

自殺の犯罪性を肯定する見解に立つと次のように帰結する。犯罪を阻止する任務を担う国家機関には、自殺者並びにそのいわゆる共犯者に対して、殺害を中止させる強制権(Zwangsrecht)がある。しかしその一方で、これらの者に正当防衛権(Notwehrrecht)が与えられることはもちろんありえない。

以上と対立する見解は、自殺をある種の殺害権の行使と見なすもので、必ずしも教会の見解に強い影響を受けた自然法学者によって主張されてきたわけではないにせよ、極めて自然法的な考え方である。この説もまた法源のなかにいささかの支柱も見出だせない。というのも、自殺が殺害権の行使であるという理由で無罪になるなどと見なすことはできないからである。処罰されない犯罪行為は数多く存在する。

したがって、この見解は純然たる理論上の構成物であって、個人の諸権利の本質を誤解し、禁じられていないことをもって、このような権利と混同する通弊を犯している。殺害が他者に対してだけ禁じられているがゆえに、〔この見解からは〕以下のような帰結が引き出される。すなわち、どんな人であっても、生命に関する(auf)権利、あるいは生命に与する(an)権利、それどころか生命を支配する(uber)権利のいずれかを有しているということである。私にはこれらはどれもこれも間違っていると思われるが、それはともかく、この種の占有権(Besitzrecht)によって、生命を堅持することも、自ら放棄することも許されるのである。したがって、人は自分自身に与する権利ないしは自分自身に反する(wider)殺害権を持つことになる。そればかりか、場合によっては、自分自身に関する限りで、その権利を他者(andere)に譲渡することさえできるのである。

(中略)

すなわち、行為の目的が一般的に(general)法秩序に合致し有効なものと見なされる限りで、行為権なるものが与えられる。そのため、法の観点から行為が一般的に承認されるか否かは、その行為の目的次第だということになる。ところが、自殺に対してはこのような承認が与えられることは断じてない。

(中略)

しかし、ひとたび自殺行為の合法性を承認する立場に立つならば、以下のようになる。

(a)誰であろうと自殺者の合法的な行為を妨害する(hindern)権利を持たないこと

(b)妨害しようとするどんな試みに対しても自殺者には正当防衛権が与えられること

(c)自己を殺害する各人の権利がまったく譲渡可能なものと見なされるならば、そうする人の同意を考慮して行為する共犯者も、もちろんこの場合に限ってのことではあるが、同様に合法的に行為している。したがって、共犯者は行為に関して同じく誰からも妨げられないし、いかなる妨害の試みに対しても正当防衛権を持つこと。

とはいえ、共犯者がいかなる同意もなしに行為する限りは違法ということになるから、行為の遂行は妨害されてよいし、それどころか、場合によっては妨害されなければならない。さらに、罪となる場合には、共犯者は基本的に責任を取らなければならない。さらに、罪となる場合には、共犯者は基本的に責任を取らなければならない。

この譲渡可能な殺害権という観点からは次のように述べることさえできる。

(d)明確な同意を与えた人を殺害することも、同様に合法な殺害行為と見なされること。

自殺を犯罪行為としても、合法行為としても捉えることができないとすれば、残るのは法的に許された行為という見方だけである。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、pp.26-29、中公選書

ここでは、

  • 「自分自身に対する殺害権」の行使は自殺である
  • 「自分自身に対する殺害権」は本人の同意のもとで譲渡されうる
  • 「自分自身に対する殺害権」を譲渡されたものによる他者の殺害は合法である

というロジックが進められています。

この考え方の延長線上では、「同意を得ることが困難(=何らかの理由で他者とコミュニケーションをとることができない)場合には、その本人が「社会にとっての重荷」とみなされるとき、本人の同意を譲渡されたものとして、周囲が殺害することも合法である、という危険な思想につながります。

なぜ、この本が相模原の事件との関連を指摘されたのかと言うと、植松被告が「意思疎通ができない障碍者は生きる価値がない」という考えから、意思疎通のとれない人間を殺害することに何の反省もせず、むしろ正しいことをしたと考えている背景には、本で取り上げられた「(社会の生産性のために意思疎通のとれない人間の)殺害権を(周囲が)行使することは合法である」という思想と酷似していたからです。

ここで、「社会の生産性」という部分との関連で、同時に議論されるのが、「優生思想」です。

「優生学」と「優生思想」は混同されやすいのですが、それぞれの定義は以下のものとします。

優生学は「良い生まれ」の原義どおり、生殖に介入し、遺伝子の管理によって断種や隔離をめざす。それに対して優生思想は遺伝子の介入・管理には限定されず、能力に関して優劣を線引し、人物選別から命の選別にまで及ぶ。それゆえ、安楽死は優生思想の帰結なのだ。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、p.191、中公選書

「社会の生産性」とは、「社会を構成する個人およびシステムの生産性の総和」であると考えると、「社会の生産性に貢献が少ない≒能力が低い」人間に対する差別は、資本主義経済でなくとも、共同体の維持・繁栄の観点から明確には見えにくい形で実にあらゆる場面で目にすることがあります。

優生思想がこうした「能力差別」と明確に異なるのは、以下の優生思想を構成する要件のうち、能力主義は①と②を意味するのに対し、優生思想は①と②の延長線上で③と④も含んでいるということです。

優生思想を構成する要件は次の四つである。ここで「機能的」とは、社会集団の存続目的に貢献する(役立つ)個々の成員の働きを示す言葉である。

①機能的な「能力」の差別である。

②能力差別に基づいた人物選別である。

③人物選別は命の選別(生命選別)にいたることがある。つまり、「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」のあいだで線を引くことがある。

④選別は身体への(主に医学的な)介入によって実行される。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、pp.198-199、中公選書

こうした優生思想や安楽死に対する一般的な反応は、次の5つのパターンのいずれかに該当すると言われています。

①意味ある人生を実現するために身体(命)がある。ただ生きているだけでは意味がない。役に立たない命には価値はなく、取り替えることもできる。単純化すれば、これが橋田や松田道雄の立場である。

②意味ある人生を支えるための一般的な基礎が身体(命)である。生きてさえいればいつの日かきっと良いこともあるだろう。医療者の延命主義を支えているのがこの見方である。

③生きていること自体に価値がある。命(身体)は個人の相対的な意味付けを超えている。生命そのものが神聖なのである。この見方は生命主義やそれに類似した立場に共通している。

④人は理性的な人格として尊厳をもつ。身体は人格を担う主体(基体)であり、人格と身体とは不可分一体である。この見方はカントの人格主義の立場である。

⑤どのような状態の身体(命)であろうと、そこから生じる花(人生)は個性をもって輝く。命は唯一無二であり、どの命もすべて等しく、そこに優劣の差はない。これは差別を批判して安楽死に反対する人々に多い見方である。

森下直貴/佐野誠、新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察、pp.209-210、中公選書

こうした意見に対し、今回の記事の冒頭でかかげた、人間の人生の生きる価値は他者からは決められないという視点で、各論に反論してみたいと思います。

  1. ただ生きているだけで意味がないかどうかは誰にもわからない
  2. 生きてさえいればいいことがあるかはだれも保証できないが、仮にいいことがなかったとしてもそれが生きていてはいけない理由にはならない
  3. 生きていることに価値があるかどうかは、客観的にはわからず、本人が主観的にどう感じるかが重要。しかし、生命の神聖さは確かに存在する
  4. 尊厳を人生の価値の他者評価とみなすならば、尊厳があるかどうかもわからない。しかし、尊厳を「他者の人生の価値は他人が決められない」という判断不能性を指すのであれば、尊厳に基づいた安楽死批判は論理的に正しい
  5. どの命もすべて等しく、優劣の差はない、と判断することもできない。このような「綺麗事」にたいする一種の反動が植松の思想に賛同した意見がインターネット上で観測された背景にあったのではないか。しかし、「自分の人生の価値(意味)を、自分で決められる」という点では命は平等であり、優劣の差はないということはできる

最後に、ヴィクトール・フランクルによる「精算自殺」に対する反論を紹介して、本節をしめたいと思います。

時おり、いわゆる精算自殺のことが問題になる。それは人間が単にその生涯を精算しようということに基づいて自殺を決行するということである。快楽の精算としての精算自殺はいかなる場合にも否定的な評価をうけねばならないことは既に「生命の意味としての快感」の問題を扱った時に述べられている。ここではもはやこれ以上生き続けるに価しないという生命の価値の精算がやはり否定されるべきかどうかという問題を取り扱ってみよう。われわれは人間が生命の精算を充分な客観性をもって行いうるかどうか疑わしいことだと考える。特にこのことは、或る状況がもはや逃れ道がなく自殺だけが唯一の逃れ道であるという主張にあてはまるのである。たとえこの主張が強い確信に基づくとはいえ、この確信には或る主観的なものがつきまとっている。何人もこの確信が客観的でもあり、正しいとは知りえないのである。或いは、次の瞬間の出来事によって正しくないことが立証されるかも判らないのである。そして彼は自殺してしまえばその瞬間を体験することはできないのである。たしかに或る自殺が意識的になされた犠牲としてときたま是認され、真に倫理的な行為とされることも純粋に理論的には考えられうる。しかし経験的にはわれわれは、かかる自殺の動機が多くはルサンチマンから発していることを知っているのである。あるいはかかる場合でも一見他の方法が無いように見れるにもかかわらず結局他の解決の道がありうることを知っているのである。従って実際的には自殺は決して倫理的に是認されないと言いうるのである。また贖罪としても是認されえない、なぜならばそれは……態度価値の実現化の意味において……自己の苦悩において……自己の苦悩において精神的に生長し且つ成熟することを不可能にするのみでなく、またわれわれが他人に加えた苦悩をなんとかして再び回復せしめようとするのを不可能にするのである。かくして自殺は、起った不幸あるいは行われた不正を世界からしめだす代りに、過去を永遠化してしまうのである。……自殺者は自己を世界からしめだしてしまうのである。

V・E・フランクル著、霜山徳爾訳、死と愛 実存分析入門、pp.59-60、みすず書房

おまけ:21世紀少年の「ともだち」について

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。(そして、おつかれさまでした。)

かなり難しい議論もしていたので、ほとんどの方がここまで到達せず、離脱されたのではないでしょうか。

(グーグルアナリティクスからサイトの滞在時間を見ることが趣味なのですが、ときどき30分近くページに滞在されている方がいらっしゃることなども確認しておりまして、長文でもじっくり読まれている方もいるんだな〜と驚くことがあります。)

さて、最後の節は単なるおまけです。とはいえ本編とも関連はございます。

どうでもいいことなのですが、筆者の一番好きなマンガは浦沢直樹氏の本格科学冒険漫画「20世紀少年」でして(MONSTERもMASTER キートンもPLUTOもBILLY BATもパイナップルARMYもとにかく闇の深い作品だったら何でも好きなのですが) 最近では、新型コロナウイルスの騒動を予言していたのでは?などとも言われていましたが、とりわけ好きなエピソードは、最終巻の21世紀少年(下)の以下のシーン、子供時代の「ともだち」が学校にも家庭にも居場所がないため、学校の屋上から飛び降り自殺をしようと階段を登るシーンです。

今の世の中……必要……?

僕は必要…………?

必要じゃない……?

今の世の中は必要……?

こんな世の中……いらない!!

浦沢直樹、21世紀少年、下、p.173、小学館

ここで、「ともだち」は、自分を価値の判断基準として、世の中を「必要ない」と断じます。この思考が、作品内で描かれた未来での「ともだち」の凶行につながる予兆であることは、ここまでお読みいただいた方にはすぐに理解できると思います。

さて、屋上にたどり着いた「ともだち」は、いよいよ屋上のフェンスに足をかけ、死のうとするわけですが、まさにそのとき「20センチュリーボーイ」の爆音が、主人公のケンヂによる放送室占拠によって流されます。

「ともだち」は自殺を思いとどまり「今の曲は何だったんだろう」と近くにいた子供時代のケンヂに質問します。

ともだち「ねえねえ。」

ケンヂ(子供)「んーーー?」

ともだち「今の曲、聴いた!?」

ケンヂ(子供)「んーーー、ああ……俺がかけたんだもんよ。」

ともだち「僕……明日以降の予定が……ずっとずっと白紙だったんだ……ねえ。」

ケンヂ(子供)「んーーー?」

ともだち「僕と”ともだち”になってくれる?」

ケンヂ(子供)「別にいいけどさ…………友達なんてなろうって言って、なるもんじゃないぜ。聴くか?ラジオでいい曲かかってるぜ。?」

・・・

ケンヂ(大人)「よお、おまえさ……カツマタ君だろ。」

(ドアの音・バタン・ともだち退場)

ケンヂ(大人)「この先いろいろあるけど……しっかりな。じゃあな。」

(ドアの音・バタン・ケンヂ(大人)退場)

(20センチュリー・ボーイのジャケットのアップ)

浦沢直樹、21世紀少年、上、pp.20-21、小学館

最終的に「ともだち」は何者だったのかは明確には描かれていませんが、一言で言えば、「20世紀少年」だったのでしょう。

ああ……

僕が……

僕こそが……

20世紀少年だ。

浦沢直樹、20世紀少年、20巻、pp.150-151、小学館

結局、「ともだち」は、時代が21世紀になっても、誰一人「ともだち」はおらず、「大人」になりきれず、「子供」として、つまり「20世紀”少年”」として欲望の赴くまま、「遊び」続けたけれど、自分の命を救ったケンヂに敗れ、マスクを取られ、正体を見破られます。「ともだち」はある意味「超人」的なキャラクターなのですが、いつかは「遊び」も終わりがくるので「超人」として生き続けるのは大変なのかもしれないと漫画から読み取れたのでした。

ともだち「ケンヂ……あ……そび……ましょ…………」

ケンヂ(大人)「言っただろ……俺達の遊びはおしまいだって……だからもう、こんなマスクなんかはずすんだ。」

ともだち「だめだ……はずしたら終わっちゃう…………だめだよ……はずしたら、僕達の遊びが……」

ケンヂ(大人)「終わりだ。」

浦沢直樹、21世紀少年、上、pp.20-21、小学館

参考図書

(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)

人生に生きる価値はない


人生に生きる価値はない(新潮文庫)

純粋理性批判(上・中・下)


純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)


純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)


純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

なぜ世界は存在しないのか


なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

ツァラトゥストラはこう言った(上・下)


ツァラトゥストラは こう言った 上 (岩波文庫)


ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

夜と霧


夜と霧 新版

知の教科書 フランクル


知の教科書 フランクル (講談社選書メチエ)

それでも人生にイエスと言う


それでも人生にイエスと言う

ことばは光


ことばは光

死と愛 実存分析入門


死と愛――実存分析入門

新板「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察


新版-「生きるに値しない命」とは誰のことか-ナチス安楽死思想の原典からの考察 (中公選書)

20世紀少年(20巻)


20世紀少年 (20) (ビッグコミックス)

21世紀少年(上・下)


21世紀少年 (上) (ビッグコミックス)


21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

関連記事

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

最新の投稿

固定ページ

2021年10月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031