哲学

哲学の定義

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目次

  • 簡単な定義
  • 定義の定義
  • 難解な定義
  • 参考図書

簡単な定義

この記事にたどりついたあなたは、

哲学の定義ってなんだろうと思い、

なんとなくきたのだと想定します。

(ガチ勢は原著論文を読みます。)

そこで、簡単に一言で言うなら、

  • 哲学とは考えるプロセスを楽しむことです
  • 哲学とは素朴な疑問を問い続けることです
  • 哲学とは空論を真理のように語ることです

などと、終わらせても良いでしょう。

定義の定義

しかし、それだけでは淋しいですし、

哲学のなすべきことは、いつでもそのつど繰り返し一から始めることだ、ということです。

マルクス・ガブリエル、なぜ世界は存在しないのか、p.27、講談社選書メチエ

などとも、言われておりますので、

まずは、一から始めてみましょう。

定義について、以下を援用します。

一、各々の物の真の定義は、定義された物の本性のほかは何ものも含まず、また表現しない。このことは次のことから出てくる。

二、定義は、定義された物の本性のほかは何も表現しないのであるからには、いかなる定義も或る一定数の個体を含まず、また表現しない。例えば、三角形の定義は、三角形の単純な本質のみを表現し、けっして或る一定数の三角形を表現しない。

三、存在する各々の物には、それが存在する或る一定の原因が必然的に存在することに注意しなければならない。

四、最後に注意すべき点は、或る物が存在するその原因は、存在する物の本性あるいは定義自身のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)〔これは、実体の場合〕、そうでなければ、その物の外部に存していなければならない〔これは、様態の場合〕ということである。

バルーフ・スピノザ、畠中尚志訳、エチカ、第一部、定理八・備考二、岩波文庫

難解な定義

少々長くて読みにくいのですが、

今まで私が見てきた定義の中で、

しっくりきたものを紹介します。

物の存在をその外から触れて確かめるのとは違って、自分の存在、実存ということ奇妙なあり方を、内側から、自分自身のほうから、ほとんどそれに触れるかのように感覚して確かめることが、われわれ人間にとっては、決定的に必要であり、重要である。

「存在の感覚」が失われると、人間は危機に瀕する。だが、同時に、その「存在の感覚」を、言語で言うことはなかなか難しい。「存在の感覚」は、それぞれまったく特異で異なっているはずなのに、それを言語化した途端に、「意味」の構築が始まり、たいていは、きわめて平凡な「〇〇のために」という形式が浮上する。言語という一般的な形式にとっては避けがたいが、その〇〇のなかに、なにか強い言葉を代入して、われわれはそれを自分に言い聞かせたりする。家族、会社、国家、人類、神、正義、平和、美・・・・・・さらには「いい大学に入る」、「すてきな恋愛をする」、「美しく老いる」なんでもいいのだ。とりあえずのこととして、「意味」を構築し、その構築によってみずからの存在を正当化する。人間が言語を通じて存在を「意味」として構築するのである以上は、このプロセスは、多かれ少なかれ不可避である。この構築自体を破壊することは難しい。にもかかわらず、言語の外に出るのではなく、言語のうちに留まりながらも、そのリミットで、この構築に対して批判的な眼差しを注ぐこと、存在の問いをそのような手近な「意味」でやめてしまうのではなく、それを超えて問い続けること、そのようなクリティークを行為することがないわけではなくて、それを、ここでは、「哲学(philosophia)」と呼ばせてもらいたい。

だから、ここで哲学とは、なにか自分の外側にあらかじめ構築されてあるものなのではなくて、やって来るモノ、やって来るコトである。さらに言えば、自分に、自分にだけやって来るモノ、やって来るコトである。なにがやって来るのかは、わからない。でも、たとえばとても怖い物語を誰かが語ると、その語りのどこかで、あるいは終わりに、ふと語りの時間が止まって、一座がシーンと静まりかえり、みんながその空間の片隅に、眼には見えないけれど、なにかがやって来たことを確実に感覚することがあるように、哲学という名の下での語りにも、ひょっとしたら何かがやって来たりはしないだろうか。そのように、なにかの知識を手に入れるのではなくて、フィロソフィア(philosophia)という原義通り「知・愛」ーいや、僕は、「知(叡智)を愛する」という理解ではなく、「知=愛」、そう、「知ること」がそのまま「愛する」ことと理解するのだがーであるような出来事が起こることを願って、まずは語ってみることをはじめたいのだ。

だから、これははっきりさせておかなければならないが、僕は「論じる」つもりはない。ましてや、内外の著名な「哲学者」たちの仕事を「解説する」つもりもない。長年の経験がないわけでもないので、その仕事についてそれなりに解説をすることができる「哲学者」も何人かいないわけではないが、そしてそのような人たちの仕事から僕の思考は深い影響を蒙っているのだが、しかし、彼らの仕事に僕が限りない敬意を払うのは、なによりも彼らがみな、それぞれまったく独自の思考のスタイルを発明し、かつそうして生み出した自分の思考の道を、それぞれ終わりなき仕方で、最後まで歩き続けたということなのだ。それぞれの道はさまざまに交錯している。ひとつの道は他の道にも通じている。だが、それぞれはそれぞれの特異なフィロソフィアの道を歩いたのだ。

そのようにしてしか、生きた、生きるべきフィロソフィアなどというものは可能ではない。「我思う、故に我あり(cogito ergo sum)」と言うのは簡単だ。近代哲学の出発点とも言うべきデカルトのこの命題なら誰でも知っている。誰でもその「意味」を知っている……だが、ほんとうにそうか。ほんとうに、その「感覚」としての「意味」を知っているのか。その感覚はやって来ているのか。それを生きることができるのか。

「感覚」がなければ、「愛」は不可能である。「愛」がなければ、存在を肯定することはできない。そして、もし「知」の「語り」を通じて、存在、すなわちそのつど特異的で、具体的な存在が肯定されるのでなければ、いったいそれはなんだろう。空虚な知識にすぎないのではないか。

僕は、フィロソフィアとは、激しいものだと思う。自分がこの世界に存在している、ただそれだけのことから出発して、しかもロゴス(logos)と言われるような言葉を見つけ出し、つなげていくことだけを通じて、自分がこの世界に存在している在り方を、それがそのまま「愛」であるように「知」ること。この愛はまちがっても自己への盲目に支配された自己愛などというものではない。傷つきやすく、また傷つくとそのまま反転して執着に変わる自己愛の呪縛そのものが、「知」によって解体されなければならない。そのような「愛」が見出されること、それこそがフィロソフィアの唯一の希望なのだ。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.3-6、大和書房(太字部分は引用者による強調)

最後に、「難解な定義」に「定義の定義」で検証します。

  1. 確かに、「構築」に対して批判的に問い続けるという前提で、「言語」の外にでるものは含まないと境界条件を定義しているので、本性をよく捉えていますね。
  2. 確かに有限の数で数えられるような定義ではありませんのでOKです。
  3. 哲学においては、なにかが「やってくる」というある一定の原因が必然的に存在していると言及していますね。
  4. 哲学は様態ですから、外側から「やってくる」ものを内側から感覚して確かめるという流れは合っていますね。

以上より、難解な定義は、定義の定義を満たしていることが確認できました。

参考図書


なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)


スピノザ エチカ 上 (岩波文庫)


エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)


君自身の哲学へ
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