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映画「十二人の死にたい子どもたち」の感想と評価

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はじめに

この映画を最初に見たのは、確か今年の夏ごろ(2021年)だったと思います。初めはタイトルからしてピンと来ない感じで、何となく自殺をテーマにした暗い感じの作品ぐらいに思い、特に視聴するつもりもありませんでした。

ところが、ふとしたきっかけでこの作品を見るにおよび、そのタイトルから勝手に抱いていたイメージはすぐに払拭され、予想外に良くも面白くもあったことは、漠然としたものではありますが、今でも記憶に新しいところです。

本作は、若者の自殺防止をテーマに厚生労働省とのタイアップを図っており、ポスターには、「死にたい」その一言を他人ごとにしない、という啓発メッセージを掲載しています。

厚生労働省をはじめとする国や各地方公共団体などでは、様々な自殺に対する取り組みを行っているようですが、とにかく大切なのは、自殺を決して自分とは無縁のことだからなどとは考えず、もし自ら死ぬことを選択してしまいそうな状況になったら、一人で抱え込まず、どんな形であっても良いので、外に向けて発信してみること、それに尽きると私は思います。

誰かが本気で自殺しよう、今から決行しようと思っていることを、本人でもないのに分かる人なんているのでしょうか?仮に運よく感付いたとしても、そんな人にこちらから何と言って声を掛けたら良いのか、下手なことをすれば背中を押すことになるかも知れません。正直なところ、いざそんな場面に出くわしたら、私にも掛ける言葉が見つかるか、ちょっと自信はありません。

黙っていられたのでは、さすがに分からない、手が出せない、それが自殺問題の一番のキーポイントだと思います。最初に外から手を差し伸べることは難しくても、当人の方から何かしらのSOSでも出してもらえれば、それに応えることは出来ます。大事なのはどう応えるかよりもどう知るかであって、本気で自殺を考えている人が自身のことをより発信し易い環境にあれば、それだけ外から手を差し伸べられる機会も増えるものと考えられます。

自殺を考えている人が、SOSなりを発してさへくれたなら、それに気付いた誰かのナイスな一言が、そっとおかれた缶コーヒーが、その人を救うことになるかも知れません。どんな対応をすればこの人は自殺を思いとどまるか?なんてことはきっと誰にも分からないですから、少し話を聞いたり、ただ傍で寄り添うだけでも、私は良いと思います。知らないままでは、そんなことも出来ません。

この映画をひどく客観的に見れば、自殺願望を持つ若者たちが一堂に会し、話し合いをして、ひとまず自殺することは止めにした、それだけのことです。集団自殺の会の主催者であるサトシは、話し合いの場を提供し、話し合いへの誘導をしたに過ぎません。ただ、そのおかげで参加者達は自らの境遇や心情などを発する場を得ることが出来ました。

集いの詳細については次項以降に譲りますが、参加者は皆自殺願望を持つただの若者達です、当然ですが心療内科の先生などその道のプロッフェッショナルな人達が同席してるはずもありません。それでも参加者達は、自らの意思で実行の中止を決め、集いは解散となりました。本作は、本気で自殺を決意するまでに追い込まれた人達にとって、誰かにその心情なりを発して話をすること、それがどれ程大きな影響を与えるかを露骨に物語る内容ではなかったかと思われます。

少し長くなってしまいましたが、映画はあくまでエンターテイメントだと私は思います。本作も自殺問題に絡む社会的な意図を軸にしたものであるとは思いますが、実に面白味のあるストーリーでそれを包み、更にその物語を若い旬の俳優陣で見事に彩っていたと感じられました。この評論をご覧になるにあたって、その辺りを念頭に置いていただけると、より筆者の考えが伝わるものと思い、また、もしそれに共感いただけたなら幸いに思います。

感想と評価

ここでは、この作品に対する私なりの感想や評価、見解などが述べてあります。ネタバレも多く含みますが、映画や原作
では語られていない私独自の推察もかなり交えております。予めご了承ください。

本作の公開は2019年で、冲方丁による同名の長編ミステリー小説を原作としています。

先ずは、ざっと概要を述べますと、12名の若者達が集団安楽死の会に参加、ところが会場では謎の男性がベッドで横たわっている。参加者達はすぐにでも集団自殺を実行したいが、この厄介な部外者(最初は死体と思われてた)のおかげで、実行は頓挫、謎解きと犯人捜しが始まった。

参加者たちは互いの事情を話しつつ、推理を進め、やがて部外者についての謎が解き明かされた。話し合う中で、参加者達の心情に変化が起こり、実行は中止、解散撤収となった。

本気で自殺を決意した人間が、本気で自殺をするために集まったのです。この会に参加した若者達の様子からは、終始その強い思いが見て取れました。生半可なことでは彼らの決意は揺らぎません。ところが、そんな彼らの目的を一蹴するかのように運命の歯車は回り、あっけなく実行は阻まれてしまいました。この集いの会場となった廃病院の多目的ホールには、招かれざる先客がベッドに横たわっていたのです。

参加した若者達が、この日どんな気持ちで会場に足を運んだか、想像に難くはありません。ですが、それでもやはり、この状況での実行は躊躇われます。結局、実行反対の票が1つ出てしまい、会は話し合いへ突入、追い打ちをかけるかのようにシンジロウが得意の推理を始めました。そして話は、この中に殺人鬼がいるのでは?そんな方向へと思わぬ展開を見せます。参加者の心境としては、正直たまったものではないでしょう、それこそ「勘弁してくれ」を絵に描いたような状況です。

私はこの作品を見て、死を決した若者達の緊迫した生々しい心模様が、とてもよく伝わって来ると思いました。何より、集団自殺を図るはずの集いが一転、シビアな流れはそのままに、降って湧いた珍客の謎解きへと向かったのは良かったですね、そうきたかと、妙に高揚して話にズンズンと引き込まれて行きました。私が感じたこの映画の面白味、醍醐味は、そんなところにあったと思います。

さて、ここからは話の内容について、登場人物ごとに少し詳しく触れていきたいと思います。

先ずは、集団安楽死の会の主催者であるサトシについてです。(サトシについては別記もあります)

サトシにはこの会を開くにあたっての目的がありました。そして、それを叶えるためには、参加者達に自身の心情なりを吐露してもらう必要があったのですが、そこでサトシは、この会に1つルールを設けました。それは、(集団自殺の)実行は全員一致が原則であり、反対の人がいる限り、話し合いが続くというものです。これだと、実行に反対の人が退場もせず、この場にいる限り、実行はされないことになります。

会の参加者についてもそれなりにフィルターをかけて選出しているようですし、サトシは実に用意周到で頭の切れる人物だと思います。先のルールにしても、単に集団自殺をするだけなら必要ないものです。皆で集まり、準備をして、はい実行、それで終わりです。ただ、それではサトシの目的は叶いませんから、例え自殺をしに来ている人達にも、そうそう無視されないようなシンプルでもっともらしいルールを考案したものと思われます。

サトシの言動については、おや?っと思われる点がいくつかあったので、述べておきます。

集いの会場にサトシ以外の皆が揃い、そろそろ開始時刻となって、実行か否かの最初の決議を取ろうとした瞬間、(実行は)させませんよとばかりに、サトシが会場に入って来ました。開始時刻きっかしに来なければならない理由はなく、あまりにタイミングが良過ぎるので、ドアの向こうで盗み聞きでもしてたのでは?と疑われた程です、どこか別室で会場の様子をモニターしてたかも知れません。

更には、サトシは他の参加者に指摘されるまで、会場のベッドに横たわる人物(0番)に関して、何も言い出しませんでした。この集いの会場となったのは、サトシの父が経営していた病院の地下にある多目的ホールで、会場の準備をしたのもサトシです。その本人が、あの入口から真っすぐ参加者達の居並ぶ机に向かい、ベッドに眠る人物に気付かないというのはちょっと考え難いです。また、そのベッドの横に置いてある車イスについて問われた際も、「気付きませんでした」などと白々しく答えていましたが、いやいや、気付きますよ、例えサトシでなくても、あの部屋に入れば、ベッドにいる人物と車イスは目に入るはずです。

思うにサトシは、集団自殺の実行を頓挫させ、参加者達を話し合いに引き込むためのネタとして、たまたま今回はベッドに眠る人物を利用したものと考えられます。先の不自然な言動にしても、その部外者と自身との関連性を疑われるのを嫌ってのことでしょう。

サトシはお医者さんの息子だけあって、本当に頭が良いのでしょうね、身の回りに起きた不幸をただのマイナス感情で終わらせず、それを科学する方に向けました。人によっては怖いとも取られそうですが、少なくとも私は、そんなサトシのような人間を嫌いではありません。

次は、謎解きの立役者となったシンジロウについてです。

彼は難病に侵され、きつい将来を拒否してこの会に参加しました。病気のため、そうそう出歩くことも出来ないのでしょう、思考が唯一の楽しみだと言ってましたが、この日は、今日が最後だとばかりに鍛え上げた推理力を爆発させてましたね。
シンジロウは会場入りする前から、正面玄関の自動ドアが機能していることに不審を感じていました。理由はサトシからの連絡で、裏口のドア以外に入館経路はないとあったからです。

新田真剣佑さん演じるシンジロウの言動や雰囲気は、この作品の大きな魅力の1つです。もちろん、他の参加者達もそれぞれがこの作品の魅力を形作っていたと思いますが、やはりそういう意味では、この人が一番の貢献者だと私は思います。

続いては、アンリとノブオ及びユキについてですが、彼らに関しては、物語の展開と深い関わりを持ち、それに沿った興味深い言動や表情が見られましたので、述べておくことにします。

アンリは一番、ノブオは2番目に病院に到着しました。屋上から2人は、車イスを押して病院に入ろうとする人物を見つけ、下に降りてみると、車イスに乗った方の人物(0番、薬で眠らされている)が置き去りにされているのを発見、集団自殺実行の妨げになると思った2人は、彼を他の参加者の目から遠ぞけました。0番をお忍びで会場に運び込んだのもノブオです。

参加者達の話し合いの中で、二人がタッグプレイをしてる箇所が見られます。もちろん、早く実行の決を採るためですが、最初にこの作品を見た段階では、分かりません。

ちなみにノブオは、会場のベッドに横たわる0番の謎解きが始まり、参加者達が院内を探索する中、エントランスの自動ドアの検証で、シンジロウが0番には付き添いがいたことを突きとめると、「お見事」と言ってましたが、思わず口走ってしまったものと思われます。

最後は、物語のキーマンとなったユキについてです。

ノブオによって会場に運び込まれ、ベッドに置かれていた人物、謎の部外者はユキの兄でした。ユキはサトシによって招待された人しか参加できないこの会に兄も参加させようとして、病院に連れて来てしまったのです。薬で眠らせて死んだように見せかけ、会場に置いておけば何とかなるとでも踏んだのでしょう。浅はかながら、兄を思っての行動でした。

ユキの挙動については、初回視聴の時から、何だか怪しげに思えていました。自殺をしに来ているのですから、活気がないのは分りますが、それにしてもテンションが低過ぎるというか、何かビクビクしてる様にも見えました。

そうです、ユキは怯えていたのです。参加者達がどんどん謎解きを進めて行く中、いつバレるいつバレると最初から気が気でなかったことは、改めてこの作品を見返せば、その表情から十分に見て取れるでしょう。

この映画は、最初に見た段階では分からないことがとにかく多いです。それでも十二分に楽しめる作りにはなっていますが、一度全部ご覧になり、改めて見返していただきますと、なるほどと頷けるシーンが随所に散らばっており、ストーリーもより明確に繋がって、初回とはまた別の面白味を得られるものと思います。なお、エンディングでは、集いの裏模様というか答え合わせ的なシーンも見れます。

この作品の社会的見地から見る評価

本作につきましては、自殺という大きな社会問題を考える時、確かに有意義に感じる内容でもありましたので、それに関して、ストーリーと私見を交え、ここに少し綴っておきます。

ほんと呆れる程に現実はシビアで、そんな世界にあって人は、社会的なことに限らず、様々な理由で思い悩み、時には自ら死を選ぶまでに追い詰められてしまうこともあります。そして、先にも示した通り、本気で自殺を考える程に苦しい状況に陥ってしまったなら、とにかく自身の心情なりを外に向けて発してみること、それが肝要だと私は考えます。

では、自殺を考える程苦しんでいる人達が、どう自身のことを発信するか、公共機関のサービスを使う、それとなく知人に話してみる、今ならインターネットを利用するというのも良いでしょう、手段が無いというわけではありません。ですが、話すでしょうか?死ぬ程辛い環境にあって、もう死のうなどと思っている人が、そう易々と自身の心境などを他人に打ち明けたりするでしょうか?もちろん、中には僕はいける、私は平気なんて方もいらっしゃいます。ただ、いじめなど人には言い難い悩みもあるでしょうし、相談したところで何ともなりそうにない、そんな風に思い、一人で抱え込んでしまう人が多いのではないかと思われます。

この映画でサトシは、インターネットを介し自殺志願の若者を集団安楽死の会に招きました。ところが、ひょんなことから実行は頓挫し、参加者達による話し合いへと展開します。
先ず、会の性質上、参加者達は同一の場に身を置くことになります。そして、居合わせた参加者は、互いがここに自殺を図りに来た人間であるという認識を持っています。その上で、参加者同士会話を重ねることになるのですが、どうでしょうか、サトシが用意したこの場は?上述にある様な本気で自殺を考える程に苦しい状況にある人にとって、自身の心情なりを外に向けて発するのに、かなりの好環境だと思いませんか?

会は予期せぬ事態となり、集団自殺を実行するには、話し合うしかない状況(実行に反対の人間がいなくなるまで)になったのですから、一同の間で自然と会話も生まれてきます。これにはサトシによる誘導も感じられましたが、話す相手は、皆自身と同じ自殺を決意している人間で今から死ぬつもりの人間です。参加した時点で互いに言わずもがなの間柄なのですから、自身を語るのに、最初から垣根が無いというかハードルが低いというか、かなりやり易い場ではあったと思います。親や友人にはとても話せない、それどころか、受話器の向こうの他人にも気が引ける、そんな話であっても、ここでなら、と思える環境です。

自殺を決意した理由は参加者それぞれですが、自ら死を望む程の辛さや苦しみは、一同の知るところであります。それが、電話やパソコンの画面越しではなく、対面している本人の口から直に伝わってくるのですから、ここでの会話は互いの心に重く響いたものと思われます。

参加者たちは自殺を決意してここに来ていています、後述しますがその思いは強いです。それが結局最後には、実行しないの決に至ったのは、ひとえにここまで記したきたようなコミュニケーションの場の効果によるものと私は考えます。終盤、シンジロウは皆に「ここにいる全員に生きて欲しいと思った」と言っていますが、この集いのような場で、自身の心情や境遇などを吐き出し合った参加者達には、互いに生きて欲しいという感情が芽生えたのではないでしょうか、そして、それは参加者自身の生きようとする気持ちへ繋がったものと推測されます。
この集団安楽死の会は、実行中止で幕を閉じましたが、自殺はいつでも出来ます。ただ、この集いで自身と同じく死にたいと願っていた人達と過ごした時間は、参加者達のこれからを生きる糧になったものと思われます。

本気で自殺を考える程に悩み苦しんでいる人にとって、本作での集いのようなコミュニケーションの場(集いの主旨は話し合いではありませんが)は、確かに価値あるものと考えられますが、現実の自殺という社会問題の対応策として、そのまま活用出来るものではありません。実際の対応策としては、先のような状況にある人達が、より自身の心情なりを外部に向けて発し易い環境を、誰もの身近に整えていくことが必要だと私は思います。

サトシについての考察

サトシの目的とは?

映画の話の土台を成す安楽死の会は、サトシが主催したものです。中盤、彼はこの会を催した理由を参加者達に話してはいますが、あれだけではサトシがインターネットで参加者を集い、このような会を開いてまでやりたかったことが、不明瞭なままで終わってしまっているようにも思えます。そこで、サトシは何故このような大それた集いを開くのか?私なりにその核心へ少し迫ってみました。

サトシが語った安楽死の会を開く理由は、概ね次のようなものです。

サトシの兄が医大に落ちて、母親が無理心中を図り、両名共に命は助かったがその後二人は家を出ることになった。サトシの父親(医者であり、舞台となった病院を経営していた)は先の無理心中の件で鬱となり、やがて自殺してしまった。

以来サトシは死に憑りつかれてしまい、人が死にたいと望む気持ちとは一体どんなものなのか?それが知りたくてたまらなくなり、この会を設けるに至った。

人に限らず動物が生きていたい、死にたくないと思うこと、感じることは本能であり、ひどく強いものです。それは当然動物の行動を抑制し、生存を持続させる方に向かわせます。種を存続させていくためには必要不可欠な機能でしょう。

それにも関わらず人は自殺を行います、他の動物ではあまり見られません。特に人の自殺で特質な点は、イジメや仕事のストレスを苦にしたもの、夢に敗れた挫折感、恋人にフラれた悲しみ、将来への不安など理性的な理由で自殺をすることです。恋愛感情そのものは本能的なものなのかも知れませんが、そこから発生した悲しみで自殺を図るというのは本能の範疇を超えていると思います。

人の自殺は理性的な理由によるものが多いですが、先述の通り、当然そこには本能の壁、生存本能が立ちはだかります、しかもこの壁はかなり厚いです。理性的な理由でこれを貫き、自らを死なせるには、相当強い気持ちが必要になると思われます。死んでしまいたい気分になることや自殺を考えることはあっても、本当に自殺してしまう人は滅多にいません。数にしたら少なくはないかも知れませんが、割合にしたら僅かです。

人が自殺を図る理由は様々ですが、本当に実行するか否かの一線を画すものは何か?本能の壁を突き破るだけの気持ちとはどんなものか?自らがしつらえた舞台で、サトシは貪欲にその命題の答えを探しているように私には見えました。

ちなみにサトシがこの会を開くのは、今回で3回目とのことです。その熱意の程が伝わっては来ますが、本気で自殺を図りに来てる人達を3回も相手にするなんて、実際よくやるわというのが率直な感想です。本当にサトシは死に憑りつかれてしまっているのかも知れませんね。

サトシ自身は本当に自殺するつもりがあるのか?

これについても、少し気になったので述べておきます。結論から申し上げますと、私にはサトシに自殺願望があるようには見えませんでした。

事実、サトシは安楽死の会を開くに至った理由については劇中で述べていますが、自分が自殺をする理由を語った場面は無かったと思います。

何より、彼は人が本当に死にたいと望む気持ちを心底知りたがっています。何かをひどくやりたがっている人間が死んではいけません、サトシは先の命題の答えを得るまでは、自ら死ぬことは許されません、死んでしまったら答えが得られないからです。

映画のラストでサトシとアンリが話をする場面があり、そこで彼はアンリに元より死ぬつもりはなかったのでは?などと問われます。物語の序盤にサトシは、自身も今回自殺を図る参加者の1人であるという内容の発言をしており、先の問いに対しても軽く否定こそしていますが、怪しいものです。

会話の続きでサトシは、この集いでの実行中止が決まり、誰もいなくなった部屋を見ると気分が良くなるといったような発言をしています。死に憑りつかれ、本当に集団自殺を図るつもりの人間が、共に死んでくれるはずの人達が歩いて去っていった部屋を見て、気分が良くなるということはないと思います。

サトシに自殺をするつもりがないと考えると、集団自殺の実行を頓挫及び中止させる(未実行の決議を採る)必要があります。サトシがどれだけ参加者同士を話し合わせるように仕向けても、それだけでは実行の可能性が高いでしょうから、やはり参加者に協力者を混ぜるなり、何か奥の手を用意して、毎回保険を掛けていたものと考えるのが自然です。

サトシは、もしかしたら自身も本気で死ぬつもりで毎回この集いに臨んでいたのかも知れません。
この場合は、先述の命題の答えが得られればよし、得られずともやむなしで、どちらに転んでも皆と共にこの世を去る心づもりはあることになります。偶然にも未実行に終われば、また次回に持ち越しというだけです。
ただ、サトシの表情や言動、どこか一歩身を引いて冷静沈着に会の動向を見守る様子からは、例え主催者であることを加味しても、私には彼がこれから死ぬつもりの人間には見えませんでした。

結び

幸運なことに、再びとなる映画評論執筆の機会を頂き、誠にありがとうございました。また、今回は内容も構成も自由に書かせていただくことが出来て、その点も非常に嬉しく思っております。

前回の執筆経験を踏まえて、今回は多少スムーズに書くことが出来ましたが、字数のこともあり、やはり書いておきたいことを全部出せたかとなると、否と言わざるを得ません。諸事情を踏まえて項目も削り、シンプルに構成して、飾り気はないですが、なるたけ読み易い文章に仕立てたつもりです。ただ、そうは言っても、然程経験があるわけでもないので、これを読まれた方に私の考えが素直に伝わるかどうか、一抹の不安は残ります。

この作品は、映画としての面白さもさることながら、実に社会的に有意義な内容を含むものであったと思います。
近年、日本においても毎年2万人を超える人が自殺で亡くなっておりますが、本文に記した通り、もし、自殺を決意するまでに追い込まれてしまった人達が、自身の心情などを発信し易い環境にあったなら、その数は随分違うものになったのではないかと私は推察します。

映画では自殺願望を持つ若者達が、目的はどうあれお互い直接会って話をしました。それはサトシによって用意された場でしたが、大切なのはこういった場が誰もの身近にあることだと、この作品は語っているかのようにも思えます。

映画1本に、自殺という大きな社会問題に一石を投じる程の力は正直期待出来ません。それでも本作は、自殺を考えるまでに思い悩んでいる人達にも打てる一手があるのだということを、私にそしてこの映画をご覧になった人達に示してくれたように思います。

最後に、このような素晴らしい執筆の機会を頂き、重ねて御礼申し上げます。

2021/12/6

ナガータ

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