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スペキュラティブデザインの定義・特徴・実践

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この記事では、スペキュラティブデザインと呼ばれるデザイン手法の潮流について、弊社の関わった作品などの具体例なども交えながら、定義・特徴・実践を中心に書いてあります。

スペキュラティブデザインの定義

スペキュラティブデザイン(Speculative Design)は、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのアンソニー・ダン氏が提唱した「問題提起を通じて未来を思索することを促すデザイン」のことだと、多くの日本語のウェブサイトでは説明されています。

スペキュラティブ・デザイン(Speculative Design)とは、思考するきっかけを与え、「問い」を生み出し、いま私たちが生きている世界に別の可能性を示すデザインのことである。イギリスの英国王立芸術大学院(Royal College of Art)のデザイン・インタラクティブ学科で教授を務めたアンソニー・ダン氏が提唱したデザインに関する立場のことである。

IDEAS FOR GOOD、スペキュラティブ・デザインとは・意味

スペキュラティブデザインは、ハーバードデザインスクールやMITメディアラボ、ロンドンのRoyal College of Art(RCA)という芸術大学など、最先端のデザインコミュニティで主流となりつつある概念です。RCAのAnthony DunneとFiona Rabyという教授が、共著『Speculative Everything』において、「将来あり得るかもしれない世界のあり方を予測する」ツールである、と定義しています。

早稲田大学日本橋キャンパス、未来のシナリオを創る、人を動かす方法論 ~3. Speculative Design – 事業を創造するデザインの力

デザインシンキングのような課題解決型ではなく、これからの社会はどうなっていくのかを考え、未来のシナリオをデザインして、いまの世界に違った視点を提示する「スペキュラティヴ・デザイン」。

WIRED、デザインの使命は「問い」を生み出すこと:Superfluxの「スペキュラティヴ・デザイン」とは #WXD

スペキュラティブデザインは、私たちに未来について考えさせる(思索)ことでより良い世界にしていこうという考え方です。

design-lab(Takahashi Tomonari)、スペキュラティブデザインと出会う

厳密には、スペキュラティブ(Speculative)の意味が多義的なので、「スペキュラティブデザインとは何か」を一言で述べるのは難しいですが、この「簡単に一言では言い表せない」という特徴こそが「スペキュラティブ」の真意とも考えられます。

「Speculative」ということばを日本語に訳すのは難しい。辞書的にいえば、本書で用いた「思索的」あるいは「推測的」、哲学的には「思弁的」、経済的には「投機的」といったいくつかの訳語があるが、それをたとえば「デザイン」の前に置こうとすると、なかなかうまくフィットしてくれない。「思索的」のほかにも、近い意味のことばとしては「Alternative〈もうひとつの、別の〉」や後述の「Critical〈批評的〉」などがあるが、それらが「思索的」以上に「この1語で大丈夫」という訳でもない。それはおそらく、英語と日本語の意味の違いや翻訳の問題ではなく、ダン&レイビーの2人が「Speculative」ということばに、さまざまな意味を込めて使っているからだろう。「Speculativeとは〇〇である」と辞書的、あるいは内延的に定義するのではなく、「〇〇もSpeculativeである」とむしろ外延的にひとつひとつ事例をあげて説明していくべきものなのかもしれない。少なくとも、この本はそういう形式で書かれている。「Speculative」ということばは、象徴的であると同時に、多義的でもある。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、序文、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

スペキュラティブデザインの特徴

PPPP図(フューチャーコーン)

スペキュラティブデザインについて考える上で役に立つ概念として、未来学者のスチュアート・キャンディ氏がプレゼンしたフューチャーコーンと呼ばれることもある、PPPP図があります。(こちらのリンクでビー・エヌ・エヌ社が公開しているpdfにPPPP図とその解説があります。)

PPPP図では、Present(現在)から考えたとき、想定される未来のうち、起きる確率が高いほど中心に来るように配置します。

  • Probable(起こりそう):中心の円錐
  • Plausible(起こってもおかしくない):中心から一つ外側の円錐
  • Possible(起こりうる):中心から二つ外側の円錐

円錐の外側は、科学的な見地から「起こりそうもないこと」にあたります。

スペキュラティブデザインの役割とは、想定される未来の中から「Preferable(望ましい)」未来を思索することだと言えます。

京都工芸繊維大学(KYOTO Design Lab)が主催したアンソニー・ダン氏の講演「Not Here, Not Now」では、タイトル自体が現代のマインドフルネスなどで見られる「いま、ここ」へのアンチテーゼとして、「ここでもない、いまでもない」未来への想像するきっかけとしてフューチャーコーンが取り上げられています。(下記動画の2:15~5:25の箇所です)

ダークな未来を想像することの意義

「望ましい」未来があるということは、「望ましくない」未来もありうるということです。

技術を社会に実装する上で、倫理的側面を考えるとき、上述した思考法は参考になります。

例えば、SF等で描かれる未来像が、技術者を刺激し、それがそのまま次の科学技術の達成目標になるということがしばしばあります。スペキュラティヴ・デザインを通して想像されたポジティヴな未来像がヴィジョン形成にそのまま接続されるならば、それでもよいのですが、スペキュラティヴ・デザインで描かれる未来はそのまま望ましい未来である必要はありません。ネガティヴな側面を含めた可能性を提示することで未来に対してのリアリティを獲得し、新しいヴィジョンを考える、あるいは既存のヴィジョンを疑うためのきっかけや、研究開発等におけるネクストステップに対して新しい方向性を提示する装置としてのデザインも重要です。(中略)スペキュラティヴ・デザインはとてもイギリスらしいユーモアに満ちています。日本におけるスペキュラティヴ・デザインの実践者であるスプツニ子!の活動は、日本的な文脈を意識してスペキュラティヴ・デザインの持つSFの要素を「ドラえもん」へ託すことを試みたりしていましたが、伊藤計劃のSF小説のような文脈も、もしかしたら援用することができるかもしれません。あるいは、まだまだ発掘されていない日本の優れたSF小説を大いに活用することができる可能性もあります。いずれにせよ、多くの人に興味をもってもらうためには、「直輸入」ではうまくいかないことは明らかです。日本的な応用可能性を考えるためにも、デザインリサーチを深めていくためにも、日本でのスペキュラティヴ・デザインの展開の母体となる場所を確実に整えて、議論を続けていきたいですね。

10+1 website(LIXIL出版)、水野大二郎、筧康明、連勇太朗、スペキュラティヴ・デザインが拓く思考ーー設計プロセスから未来投機的ヴィジョンへ

「日本でのスペキュラティブ・デザイン」の母体となりうる場所として、例えば、星新一賞が挙げられます。

オリジナルの星新一作品が軽快なストーリーと皮肉で(少し)辛口なオチであったのに対し、近年の星新一賞の受賞作品は、全体的に技術が暴走することで生じる「ダークな雰囲気」を醸し出しています。また、受賞者の経歴が技術者や起業家など、技術を社会実装する職業の方が多いこともスペキュラティブデザイン的な作品を生み出す土壌になっていると考えられます。

また、人間が根源的に抱えているダークな側面を無視しないことで、現実を否定せず、肯定感が高まります。

クリティカル・デザインは、ダークであったり、ダークなテーマを扱ったりすることも多いが、ダークであること自体を目的にしているわけではない。デザインの世界では、人間のダークで複雑な感情が無視されることが多い。人間の文化のほとんどの分野では、人間が複雑で、矛盾を抱えており、時に強迫的でさえあると認められているのに、デザインの世界だけが頑なとしてそれを認めようとしない。人々を従順で単純なユーザーや消費者とみなしている。その点、ダークな視点は、純朴なテクノロジー崇拝を中和させ、人々を行動へと駆り立てる力を持っている。ダークなデザインは、人々を発憤させ、挑発する刺激を生み出す。つまり、ネガティブをポジティブに利用する、ということだ。ネガティブであること自体を目的とするのではなく、警鐘を鳴らすという形で、恐ろしい可能性に目を向けさせるわけだ。(中略)ダークなデザインは、けっして悲観的でも冷笑的でも厭世的でもない。現実を否定することで善よりも害悪をもたらすようなデザイン形態とは対極にあるものだ。ダークなデザインの根底にあるのは理想主義と楽観主義である。つまり、我々が混乱から抜け出す道を考えることが可能であり、デザインがそのために積極的な役割を果たせる、という信念だ。否定、教訓、風刺は、「問題なんて何もない」という生ぬるい自己満足から、見る者を揺さぶり出す力を持っている。見る者の見方や理解に変化をもたらし、誰も考えたことのない未知の可能性について考察する場を切り開くのだ。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.72-77、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

急速に進化したテクノロジーによるダークな未来を描いた作品として有名な例としては、ブラック・ミラーなどがあります。

スペキュラティブデザインの文脈で、ダークな作品として有名なのは、ルシンダ・デブリン氏による死刑執行室を題材とした「The Omega Suites」〈最期の部屋/1991-1998年〉シリーズなどがあります。

虚構世界での「ごっこ遊び」が現実にもたらすもの

「起こりうる」未来を考えることは、フィクションとしての作品ー映画などーを創造することと近しい関係にあります。

スペキュラティブデザインは、デザイン「以外」の分野で培われた手法をデザイン分野に取り入れたものとも言えます。

デザインの分野は、ブランドの世界観を構築したり、企業の「未来のテクノロジー」のような動画を作るところで話がストップしてしまうことがほとんどだが、デザイン以外の分野では、虚構世界という概念を扱った理論的研究は豊富にある。最も抽象的な議論が行われているのはおそらく哲学の分野であり、現実、虚構、可能、非現実、仮想の細かい区別がなされる。社会科学や政治学の目的は、現実をモデル化することである。文学理論で注目されるのは現実と非現実の意味論であり、芸術ではごっこ遊び理論[make-believe theory]や虚構、ゲーム・デザインは文字どおり世界の創造である。科学の分野でも、虚構主義[fictionalism]、有益なフィクション[useful fiction]、モデル生物、多元的宇宙に関して盛んに議論が行われている。私たちにとって重要なのは、現実と虚構の区別である。現実とは私たちの占める世界の一部であり、虚構とはそうではない世界のことだ。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.111-112、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

類似した概念としては、インターネット上の音楽ジャンル「vaporwave」や、「vaporware」という概念などもあります。

英語にはもともと”vaporware”という言葉がある。テック系の企業が発売を公表していたのにもかかわらず結局日の目を見ることがなかったソフトウェアやハードウェアに対して使われる言葉だ。しかし中には、ライバル企業を出し抜くために、意図的に発売するつもりのない商品を発売予定ということにしておくケースもあるという。それは後期資本主義における広告戦略から生まれた、最初から存在しない煙のような商品なのだ。ロビン・バーネットはヴェイパーウェイブについて次のようにコメントしている。「このジャンルの音楽は、霧に包まれた場所を思い起こさせます。そこではすべてが曖昧で不確かなのです」。そしてこう付け加える。「その基底にあるのは不確かさ、ときには恐怖です」。

木澤佐登志、ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想、pp.207-208、星海社新書

両者が登場した近年の例としては、実際は存在しない「Windows96」の架空のブラウザとテーマ音楽などが挙げられます。

1990年代に登場したWindowsには、1995年に発売された「Windows 95」や1998年にリリースされた「Windows 98」といったものがあります。そんなメジャーバージョンがリリースされなかった年にもしもWindowsが登場していたら……ということで、ありそうでなかった「Windows 96」をインターネット上でHTML5、CSS、JavaScript、WebAssemblyといったブラウザ上で動作するコードだけで作成したウェブサイトが登場しました。

Gigazine、「Windows96」が登場、往年の名OSを彷彿とさせる架空のWindowsにブラウザからアクセス可能

Windows96と通称される「Windows Nashville」は、Windows95と98の間にリリースされる予定だったが、開発中止となったVaporwareだ。それは実現されなかった未来の記号、それも、極めて求心的な記号だ。(こっちの)Windows96は、いまやSynthwaveの新しいクラシックとなりつつある。スローファンクな#1「Caligula」から、レゲエ・テイストを帯びた#8「Rituals」まで、耳障りのよいドラム・ビートと軽やかに浮遊するシンセサイザーの調べ

佐藤秀彦・著、New Masterpiece・編、新蒸気波要点ガイド ヴェイパーウェイブ・アーカイブス2009-2019、p.146、DU BOOKS

もともと、弊社が設立されるきっかけとなった、架空の動物変化アイテム「獣化薬」のWEB CMのエイプリルフール動画も、広義のvaporwareに関する実験的な動画だったと言えます。

映像作品に登場する「小道具」は、虚構と現実の接点として機能しますが、スペキュラティブ・デザインはより能動的です。

スペキュラティブ・デザインにおける虚構の創作物とはなんだろうか?実在しない映画の小道具、というのがそのひとつだ。その創作物を見た人は、それが属している独自の映画世界を、頭のなかで想像することができる。したがって、一見すると、映画の小道具のデザインは良い発想の材料になると思うかもしれない。しかし、ピアーズ・D・ブリトンは「Design for Search SF」〈SF映画向けのデザイン〉のなかで、映画の小道具はわかりやすく、ストーリー展開の助けにならなければならない、と指摘している。しかし、わかりやすくすることによって、見る者を驚かせたり疑問をぶつけたりする力は損なわれる。小道具はあくまで、物語を進めるのに役立つものにすぎないのだ。映画監督のアルフォンソ・キュアロンは、自身の映画「Children of Men」〈トゥモロー・ワールド/2006〉に関する話のなかでこう述べている。「映画でいちばん大切なのは認識可能ということだ。『ブレードランナー』のようなことはやりたくない。むしろ、現実の扱い方という意味では、『ブレードランナー』の逆を目指している。それは美術チームにとっては、少し厄介だったかもしれない。僕はよく、”創作力はいらない。必要なのは参照だ”と言っていたからね。特に大事なのは、すでに人間の意識に刻み込まれている現代のイノコグラフィをなるべく参照することなんだ」

この点こそが、映画の小道具と、スペキュラティブ・デザインにおける虚構の創作物の最大の違いだ。スペキュラティブ・デザインで使われるモノは、映画のような補助的な役割を超えて、多くの小道具デザイナーがやむなく用いている、決まりきった視覚的な言語から抜け出す。たしかに、その意味を読み取るのが難しくなる。しかし、こうした心の対話こそが重要だ。これによって、見る者がデザインを受動的に消費するのではなく、デザインと積極的に関わるようになる。この点こそが、スペキュラティブ・デザインが映画用のデザインと異なる部分である。さらに、小道具自体が想像する人と同じ空間に存在することによって、体験はより鮮明になり、生き生きとし、濃密になる。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.136-137、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

能動性を生み出す要素として、既知の作品を参照しすぎることや明確さでなく、曖昧さによって考えさせることがあります。

商業的な文脈の外側で活動し、人々に複雑なアイデアと向き合ってもらおうとするデザイナーは、映画と同じように明確に伝えることを目指すべきだ、という主張もある。しかし私たちから見れば、この主張は、受け身な見る者に意味を伝える、という単純な関わり方を前提としている。むしろ私たちは、曖昧さをうまく利用して見る者を惹き込み、驚かせ、より詩的で繊細な方法で現実と非現実の相互関係を構築する方法が良いと考えている。(中略)スペキュラティブ・デザイン作品が陥りがちな落とし穴は、パロディやパスティーシュ(模倣)の使い方を誤ることだ。我々の知る世界とのつながりを維持するために、デザイナーが既知のものを参照しようとしすぎてしまうケースである。他のデザイン言語ではなく、企業、ハイテク、最新ファッションといった日常のデザイン言語を模倣してしまうのだ。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.152-153、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

また、3Dプリンターを現実の部品を作る用途でなく、小道具を創作し、配布することに使うことなども提案されています。

このアイデアを提案したデザイナーのノーム・トーラン氏、オンカー・クラー氏、キース・R・ジョーンズ氏の三人は、映画のあらすじを元にした作品群『MacGuffin Library』で、黒いポリマー樹脂を用いたラピッドプロトタイピングで制作しました。

「ごっこ遊び」では、曖昧な「小道具」だけでなく、曖昧な「”小道具としての”キャラクター」が登場する場合もあります。

典型的なデザイン・シナリオでは、人間はテクノロジーの使い方を示す理想化されたユーザーの役割を果たすに過ぎない。しかし、ひとたびリアリズムから脱却し、ありのままの世界を模倣する代わりに新たな現実を構築すれば、さまざまな新しい可能性が生まれる。その可能性を最も如実に示しているのが、ヴァシリス・ジディアナキス編集の『Not a Toy: Fashioning Radical Characters』〈おもちゃじゃない:過激なキャラクターを作る〉だろう。この本は、ファッションや芸術を超えて、衣装やキャラクター・デザインにおける実にさまざまな実験を取り上げている。(中略)最も効果的な近年の例のひとつは、リドリー・スコット監督の映画『プロメテウス』〈Prometheus/2012年〉のPRの一環として公開された、口コミを喚起するための動画である。この動画は映画に登場するウェイランド・インダストリーズ社〔Weyland Industries〕が作ったアンドロイド「デイヴィッド8」にスポットライトを当てている。動画では、デイヴィッド8がパズルを解いたり心理テストを受けたりするシーンとともに、「君は人間とどう接するのか?」という質問にカメラの前で答える様子が流される。すると、彼の答えは想定外の倫理的・道徳的な話題へと及んでいく。感情がないので人間ができない仕事ややりたくない仕事を引き受けられるとか、人間に気軽に接してもらえるよう人間の感情をまねることができる、という答えは、未来に起こりうる恐ろしい問題をほのめかしている。この例の場合、ロボットが自分自身の能力について”何気なく”振り返ることで、超スマートなテクノロジーが人間の心を操る能力を最適化したら、いったいどれだけ恐ろしいことが起こりうるかを、我々に想起させてくれる。(中略)思索的な作品から「未来」という側面を削ぎ落とせば、別の現実に関する美的な実験や独創的な描写の幅は一気に広がる。映画における最も有名な非場所のひとつといえば、ジョージ・ルーカスの映画『THX1138』〈1971年〉の広大で真っ白な空間だ。これは未来の非場所の典型といえる。しかし、白を必ずしも未来を示すものとして用いる必要はない。白は、ある種の実験、たとえば思考実験を行っている、ということを示す場合もある。(中略)こうした映画は、私たち筆者が物理的なフィクションに求めるものとは正反対のことを行っている。現実でないとわかっているのに、見る者に現実だと信じ込ませる。それがうまくいくのは映画だからであり、観客が見る前に映画のルールを十分に理解しているからだ。この種のリアリズムをスペキュラティブ・デザインの小道具や環境に適用すると、意味なく現実と虚構を混同させてしまうことがある。人々はデザインに対して、映画とは異なる期待を抱いている。そのため、スペキュラティブ・デザインの場合は、現実であると同時に非現実でもある、という曖昧な状態を伝えてくれる、新しい美的可能性を追求する方が面白い、と私たちは考えている。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.180-188、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

ヴァシリス・ジディアナキス氏らが設立した団体「ATOPOS」の活動紹介動画

映画『プロメテウス』の「デイヴィッド8」に関するバイラル・ムービー

映画『THX1138』で描かれた広大で真っ白な空間(1:09~1:45)

科学とスペキュラティブデザインの関係性

科学とスペキュラティブデザインの関係性は、大きく分けて以下の4つが挙げられています。

・科学のためのデザイン[design for science]:科学研究を伝えたり、わかりやすく説明したりするためにデザインを用いるケース

・科学と手を取るデザイン[design with science]:デザイナーと科学者の真のコラボレーション

・科学を通じたデザイン[design through science]:デザイナーが多少なりとも科学を実践するケース

・科学に関するデザイン[design about science]:科学研究で生じる問題や影響について、デザインを通じて考察するケース

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.208-209、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

スペキュラティブデザインは、単に物事を伝えるだけでなく、対話や行動についての提案も含んでいます。

例えば、一般人と専門家が実験の結果を共有する場所として博物館やギャラリーを活用すると行ったアプローチもあります。

2010年に英国工学・物理化学研究会議の「Impact!」プロジェクトでは、研究所のオープン・デイの手法を取り入れて、学問分野の垣根も越えた展示がされました。

そこでは、アナブ・ジェイン氏とジョン・アーダーン氏が制作した、『The 5th Dimensional Camera』という、量子力学で存在が示唆されている並行宇宙を撮影できるという設定で架空のカメラを展示し、参加者の反応を見るなどの取り組みなどが行われました。

こうしたイベントや制作発表を通じて、「科学をデザインを通じて問題点などを捉え直す」手法の可能性に気づいた著者は、科学とスペキュラティブデザインの関係性で、「科学に関するデザイン」がとりわけ興味深いと語っています。

これまでに何度か、デザイナーが科学者の研究の負の意味合いに気づいたにも関わらず、科学者との信頼関係がすでにできあがっていたため、負の可能性については触れない方がいい、と感じてしまったケースもあった。そのため、私たちが最も有望視しているのは、科学者と一定の距離を置くために、ひとつの話題について数人の科学者と議論しながら探求していく、というやり方だ。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、p.209、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

スペキュラティブデザインと小ユートピア

スペキュラティブデザインは、「望ましい未来」を思索するので、「小ユートピア」を妄想しているような側面もあります。

フィリップ・K・ディックは「現実は単数形で語れるのだろうか?(人の数だけ現実が存在しうるなら、)現実は複数形で語るべきではないだろうか?」と問題提起しましたが、スペキュラティブデザインも現実が複数ある立場をとることがあります。

私たちもフィリップ・K・ディックと同じように、たったひとつではなく、70億通りの違う現実があると考えている。難しいのはその現実に形を与えることだ。右寄りの自由主義と関連しているとはいえ、個人主義的なアプローチも現実の微調整に弾みをもたらしている。それは通常、特殊な政治的見解や、マニアックな性的妄想やフェティシズムなど、正式な文化では満たしきれない欲求を満足させるためのものだ。(中略)おそらく、最も成功しているミニ・ユートピアの実例は、目的共同体[intentional community]、またはその究極形である新興宗教団体だろう。私たちが面白いと思ったのはパナウェーブ研究所だ。日本を拠点とするパナウェーブは、電磁波が有害だと信じていて、電磁波を避けるためにあらゆる手を尽くす。白が有害な電磁波を遮断するとの考えから、自動車もテントも私物はみな白い生地で覆う。電磁波の汚染が少ない場所を求め、一団となって日本中を移動する。彼らが最初に世間の注目を集めたのは、2000年代初頭、安全な避難場所を探して移動する最中に大規模な渋滞を引き起こし、警察と押し問答になったときだ。信者や教祖を電磁波から守るとされる白装束が、彼らの鮮烈なイメージとしてメディアに数多く出回った。

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー、監修・久保田晃弘、翻訳・千葉敏生、寄稿・牛込陽介、スペキュラティブ・デザイン、pp.226-228、株式会社ビー・エヌ・エヌ新社

ユートピアを想像するアイデアとしては、ジョーゼフ・ポッパー氏の作品『One-Way Ticket』で描かれた「たったひとりで宇宙探査に向かった人間の孤独な片道旅行」、レム・コールハース氏のシンクタンクAMOが制作した『Eneropa』で描かれた「ヨーロッパを舞台として、地域ごとの主な再生エネルギー源ごとに地名が改称された架空の地図」などがあります。

ジョーゼフ・ポッパー氏のインタビュー動画

『Eneropa』の紹介動画(架空の地図は3:45~3:54の箇所)

また、アンソニー・ダン氏とフィオナ・レイビー氏は、「乗り物」を一種の「メディア」とみなし、未来では人々が政治思想ごとにそれぞれどのような移動手段を取りうるかを考察し、代表的な4つのデザインに落とし込んでいます。

  • Digicars(デジタリアン=権威主義かつ右派)
  • Biocar(バイオリベラル=自由主義かつ左派)
  • Train(共産核保有主義者=権威主義かつ左派)
  • Very Large Bike(無政府進化主義者=自由主義かつ右派)

冒頭でご紹介したアンソニー・ダン氏の講演の中では、19:00~37:07の箇所でコンセプトが紹介されています。

スペキュラティブデザインの実践

この節では、弊社(と社員)が制作に関連した動画および現在進行系のプロジェクトをスペキュラティブデザインの観点から背景を整理していきます。

科学実験動画

事例の1つ目は、tiktokで公開した科学実験動画「どうしてこうなるんだろう?」です。

(tiktok動画の埋め込みが見えない時は、上記のタイトルリンクからも動画に飛べます。)

@anyon_trans

どうしてこうなるんだろう?

♬ Unity – TheFatRat

この動画のポイントは、起きている自然現象への解説を動画ではあえてしてないことです。

答えを言わないことで、コメント欄で視聴者が自分の考えた理由を自由に言い合ってます。

  • 「浮力が原因じゃないか?」
  • 「表面張力が原因じゃないか?」
  • 「質量、比重が原因じゃないか?」
  • 「磁石と一緒の原理じゃないか?」
  • 「食器用洗剤を入れるとどうなる?」

他にも、「夏休みの自由研究に使いたい」と言うコメントなども見られました。

「考えるカラス感がする」も的確で、「考えるカラス」は参考にしていました。

一方で、インターネットだからこそできる、「双方向性」を意識していました。

放送メディアでは「一方向性」になりやすく、「教育」のような「双方向性」を必要とする営みにおいてはSNSが相性が良いと考えられます。筑波大学で映像コンテンツと映像事業を研究されている辻泰明教授も、次のように述べています。

学習という行為自体が、教える側と教わる側の間での双方向のやりとりを本来のものとするだけに、テレビやラジオなどの放送メディアでは、その不備が当初より指摘されていた(『昭和期放送メディア論』参照)。したがって、インターネット動画メディアが有する双方向性は、学習コンテンツの配信において、テレビに対する決定的な優位を示すことになる。

学習コンテンツのテレビからインターネットへの移行はYouTubeにおいてだけでなく、オンライン教育という様態で、さまざまなサイトにおいても発生している。インターネットはグローバルなメディアであるから、オンライン学習は、世界中のどこにいても受講可能となる。そして、オンデマンド配信がなされていれば、いつでも、どのレベルからでも学習を始めることができる。教える者と教わる者が必ずしも同時にインターネットにアクセスする必要もない上に、スカイプなどのアプリケーションを用いることにより、同時にアクセスして、リアルタイムでのやり取りを実現することもできる。

辻泰明、インターネット動画メディア論 映像コミュニケーション革命の現状分析、p.75、大学教育出版

実際、次の動画では、洞察力の優れたコメントに対して、投稿者の立場から「思考を促進するヒント」を投げかけています。

@anyon_trans

定規は おひさまに当たると ふにゃふにゃになる

♬ 思ってたんとちがう – はるか🐾

tiktokで面白いコメントを誘発する動画は、コメント欄も見られ、再生回数が伸びやすくなる点が、ニコニコ動画に似てます。

ニコニコ動画の立ち上げのときに、おいらが説明でけっこう使ったのが、シルク・ドゥ・ソレイユでした。(中略)すごい大技をやるときだけ集中してスポットライトを浴びたりするけれども、基本的には同時多発的にいろんなことがいろんなところで起きているので、1回見ただけでは全部見た気になりません。なので、「次に行ったときはここ見よう」「その次に行ったときはここ見よう」となるわけです。ニコニコ動画もそれと同じように、何度も見ない限り、全部が把握できないという構造になっています。動画があります、でもコメントもあります。動画をちゃんと見ているとコメントが読めないし書けない、コメントだけ読んだり書いたりしていると動画がきちんと見られない。なので、本来つまらない動画は1回見たら終わりでしょうが、なんとなく繰り返して見てしまうことがあるわけです。要は、なんとなくコメント書いていたら動画のほうがちゃんと見られなかった、もう1回見てみようになるので、再生数が通常よのサービスより伸びる可能性が高い。

西村博之、論破力、朝日新聞出版

すなわち、視聴者のコメントを集める=議論を呼ぶ動画は注目を集めやすく、双方向性もある教育効果の高い動画と言えます。

tiktokのコメント欄は、お互いの回答に対して視聴者同士がコメント合戦を行う場合もあり、それ自体が投稿者の予想を超えたアイデアが生まれうることや、お互いの認識のズレに気づかせて、新しい発想(妄想)も生み出しうることで、固定化された思考パターンを解きほぐし、凝り固まった頭の柔軟体操になるというメリットもあります。

江川達也氏の漫画『東京大学物語』では、1巻から33巻までの出来事が全て小学生による妄想だったことが最終巻(34巻)で明かされる「妄想オチ」で有名ですが、先行きの不透明な時代では、スペキュラティブデザインのように「思索」を重視するオンライン教育は、学校教育と比較した時に「妄想力を鍛える」という役割もあると考えられます。

貴方が、現実と思っている現実とはどこまで現実なのだろうか?見たり聞いたり感じたりして得た情報を頭の中でまとめて、現実というものを決めているのではないだろうか?貴方が現実と思っているものの中には、貴方の傷つき易い心に、都合のいい妄想が多分に含まれていないだろうか?貴方の頭の中の現実と本当の現実は、どれ位違うのだろう。貴方の現実度妄想度は一体どれ位だろう。(中略)

学校教育によって妄想パターンは減らされ、妄想的学校教育は現実的でない妄想を植えつけてしまう。日本の場合、高学歴になればなる程、妄想パターンが減ってしまう悲しい現状がある。官僚主義妄想、社会主義妄想、軍国主義妄想。植え付けられた妄想以外の妄想が出来なくなっていく。加えて自分の妄想を守る妄想をし、妄想の幅はどんどん狭くなる。科学も哲学も歴史も正義も道徳もモラルも妄想だ。日々塗り替えられているのが証拠である。数学は、最初から妄想であると自らの世界を規定しているところが他の学問に比べて潔い。数学にのみ正しいか正しくないかがある。妄想のルールを決め、そのルールの中で論理的に正しいか正しくないかを決める。数学は妄想であるが、筋の通った妄想である。しかし現実ではない。現実とは似ていることはあっても現実ではない。

現実が妄想を否定してしまった時、現実を認め古い妄想を捨て、新しい妄想が出来る人、古い妄想を持ち続けたいために妄想の上塗りをして誤魔化してしまう人、人生の局面で人はどちらかに分かれていく。どんな状況でも、状況を認め、次なる妄想を色んなパターンで新しく創れる者は、必ず幸せになる。恋したのに妄想通りじゃなかった恋人も、また見方を変えれば素敵だし、もっと素敵な恋人を探せるかもと思うのもいいし…。現実に裏切られれば裏切られる程、妄想力は上昇し、どんな苦境にあっても幸せを感じることが出来る。

しかし、逆に妄想を守るための妄想を繰り返すと妄想力は低下し、現実との折り合いがつかなくなり、それを埋めるため、誰かが自分を陥れようとしたんだとか、疑心暗鬼になり悪い妄想の虜となり、何もかも信じられなくなり現実をシャットアウトし、妄想の中に入り込み、どんどん自分のネガティブな妄想で自分を不幸にしていってしまう。

大切なことは、自分に都合の悪い現実を受け入れ、次から次へと新しい妄想が出来る妄想力を持つことである。

江川達也、東京大学物語34巻 永遠の青春、あとがき、小学館

天久野ロジ夫

事例の2つ目は、弊社による動画編集者募集ツイートで、お題とした「天久野ロジ夫」の動画です。

スペキュラティブデザインと科学技術の要素を掛け合わせて動画制作したいと思い、挑戦しました。

まず最初に、インパクトの強い”小道具としてのキャラクター”を想像するところからはじめました。

そこで、科学技術をストレートに表した名前として柳田理科雄氏と彩園すずをオマージュしました。

柳田理科雄氏は空想科学研究所の所長として、アニメや特撮などの空想作品に対する科学的な分析と考察をすることで一定の評価を得ています。

彩園すずは、久米田康治氏の漫画『かってに改造』の登場人物です。この漫画では、主要人物のキャラクター三名(勝改蔵名取羽美坪内地丹)が起こした1巻から25巻までの出来事が全て三名のキャラクターが精神病院内で箱庭療法の一環で行った「とらうま町」という箱庭での寸劇だったことが最終巻(26巻)で明かされる「箱庭オチ」で有名ですが、この漫画も根底にスペキュラティブデザインと共通点(オマージュとパロディの多用、時事ネタを通じた社会への問題提起など)があります。

彩園すず「そう。そしてこれが彼らの創り出した街…とらうま町。街を創る事により良い方向に向かって欲しかったの。グループによる試みには不安はあったけど…最初は名もなき普通高校から始まったこの街が、少しずつ大きくなり…人や物が増え…ついにはこんな大きな街に。そしてこの街で彼等は…永遠の17歳を演じていたの。」

久米田康治、かってに改造26巻、最終話「ずっと、いっしょだよ。」、小学館

「理科」や「サイエンス」をもじった名前は既出のため、「木手英一」よろしく、「天久野ロジ夫」と命名しました。

次に、登場する未来の道具として、「超並列・ニューロモーフィック・バナナコンピューティング」を着想しました。

参考にしたのは、以下の3つだったと思います。

「同じ映像素材に対し、異なるテイストで編集すると、どれだけ印象が変わるか」検証するべく、5本制作しました。

実際に比較すると、ディレクションとBGMとカット箇所の違いによって、大きく印象が異なることがわかりました。

研究紹介テイスト

MVテイスト

技術紹介テイスト

https://twitter.com/sclipcom/status/1337640910398504960?s=20

エンタメテイスト

映画予告テイスト

人間をやめてシャチになる

事例の3つ目は、弊社社員のエニオンによる「人間をやめてシャチになる」(個人)プロジェクトです。

こちらは、ベーシックインカムシネマズの企画の一環として、クラウドファンディングを行いました。

プロジェクトの経緯はクラウドファンディングのページを見ていただくとして、ここでは、スペキュラティブデザインの文脈で、プロジェクトの内容がどのように捉えられるのか、一つの思考例を提示してみたいと思います。

もともと、エニオンは、会社設立前から「バイオ・アートに関連する技術の映像」を自主制作していました。

また、現実でも可能な範囲で生物発光などに関するバイオアートを制作していました。

さらに、VRなどを中心としたアバター文化や現実拡張にも取り組んでいました。

以上のような制作をしていたのですが、ここで一度、「バイオ・アート」という言葉も説明します。

バイオ・アートに関連する書籍でおすすめの「美術手帳・2018年1月号」では次のようにあります。

バイオ・アートとは、バイオ、つまり「生命」をメディアとしたアートとまずは言える。(中略)サイエンスやテクノロジーは、人間の概念を拡張し、それは人間すらも超えていくような未来への可能性を持っており、いっぽう、アートは、人間や生命の根源に深く降りていくような、またその限界を指し示していものと措定できる。しかし、こうした一見クリアな解釈は疑ってかかるべきかもしれない。実際、この特集で紹介されているサイエンティストとアーティストの活動見ていくと、科学と芸術の境界はそれほどはっきりしたものではなく、相互に入り込んだ関係になっていることがわかる。双方において、「私たちにはなにができるか」ではなく(と同時に)、「私たちはなにを望むのか」、そして「私たちはなにになりたいか」という問いがより重要になってきているのだ。特集のサブタイトルは、「アートは生命の未来を更新するのか?」とした。しかし、なにをもって、「生命」とするのか、またなにをもって「更新」とするのか、それこそが問われている。そして、最後には、サイエンティストとアーティストの実践によって、投げかけられた複数の生命のあり方から、私たち個々人がなにを選び取っていくか、未来はそこにかけられている。

美術手帖・2018年1月号、バイオ・アート アートは生命の未来を更新するのか?、p.7、美術出版社

すなわち、「生命」自体が現代科学でも正確にわからない部分が多いので、「生命」をメディアとしたアート作品と、最先端のライフサイエンスをわける境界も簡単には引けないという状況が伺えます。

バイオ・アートの分野で有名な作品としては、「DNAの物質的側面と情報的側面の二面性の面白さ」に着目した福原志保氏の「Biopresence」や「Ghost in the cell」があります。

Biopresenceは、人間の遺伝子を樹木の遺伝子に埋め込むことによって、故人の遺伝子も樹木の中では生き続けられる可能性を示した作品です。

Ghost in the cellは、初音ミクの外見的特徴を記したDNA配列にiPS細胞を組み込み生み出した「初音ミクの心筋細胞」です。

福原氏は、社会的意義から起業したという点で、ヨーゼフ・ボイス氏の社会彫刻をバイオ・アートで行ったと語っています。

その道程は簡単ではないものの、バイオ分野における科学と芸術の共創は、日本ならではの表現が生まれうると期待します。

福原志保氏『この10年間で研究者・研究機関との協力体制は劇的に発展しましたね。最初は科学を面白おかしく使うアーティスト集団として見られることが多かったですし、実際に科学者とアーティストの間で作品発表を巡ってトラブルになる例も欧米では少なくなかったので、警戒されて当然です。一方的にアートの自由を振りかざして、科学者の側に迷惑をかけてしまっては、次世代のアーティストたちのドアを閉ざしてしまいます。メディアやテクノロジーを扱うアーティストは、誰よりも高いリテラシーと科学に対するリスペクトが必要です。(中略)一般的に海外でのバイオ・アートとは、『バイオ・テクノロジー・アートのことなんです。つまり、実地研究の側面が強く、「実際にやってなんぼ」なんです。それゆえに欧米の大学で研究するには、倫理規定も厳しくて、実行のハードルがとても高い。それに比べると、日本はまだ明確に法律が定まっていないので活動の自由があり、バイオ・アートを定義する枠組みも緩やかです。だからこそガラケー的な日本独自の表現も生まれている。そこには大きな可能性を感じます。(中略)日本のポップカルチャーの土壌と、そこで支持される初音ミクというキャラクターが絡まり合って、異様な盛り上がりを見せるのは日本ならでは。(中略)青く改良されたカーネーションを元の白い状態に戻す試みを行いました。これには「リバース・エンジニアリング」という、制作過程を逆行するプログラム技術のアイデアを用いていますが、遺伝子技術では、可逆性のような時間操作はほぼ不可能だと言われているんですね。実際、プロジェクトでも実現はできませんでしたが、遺伝子を修正液で上書きしたような痕跡は残すことができました。だから「white out」なんです。これは「meta phorest」との共同で展開したプロジェクトで、岩崎さん(※引用者注:岩崎秀雄氏/生命科学研究者)さんとも「絶対に(逆行は)できないよね」と話していました(笑)。でも、無理だと言われていることにあえて挑戦することに意味があるはずです。もしもこの技術が確立し、それを家庭でもDIYで実践できるようになったら、遺伝子組み換え食品を自分で元に戻すことができるかもしれない。(中略)コラボレーションが「co-creation(共創)」だってことを忘れなければ、アート、科学、テクノロジーは未来をつくっていけると思います。』

美術手帖・2018年1月号、バイオ・アート アートは生命の未来を更新するのか?、pp.14-17、美術出版社(太字部分は引用者による強調表現)

科学的に不可能とみなされていることに挑戦する意義について、クラークの三法則が有名です。

生命をデータとみなすことで、音楽と組み合わせて表現された事例として、やくしまるえつこ氏の「私は人類」もあります。

音楽と生命(身体)の関係を問う作品として、「人間の身体は古い」と主張し、耳型に培養した骨の組織を腕に接合し、中にマイクとWi-Fiを挿入することで、腕についた耳が感知した音をインターネットを通じて他者と共有できる「メディアとしての身体」を実現したステラーク氏の事例もあります。

エニオンが影響を受けたのは、長谷川愛氏です。特に、彼女の「私はイルカを産みたい…」にインスピレーションを得ました。

人間は遺伝子を次世代に渡す方法として子供たちを育てるように遺伝的に仕向けられていますが、人口過剰と緊張した地球環境のために最適な状況で子供を育てることはより難しくなっています。このプロジェクトは、潜在的食物不足とほぼ70億人の人口の中、これ以上人間を増やすのではなく、絶滅の危機にある種(例えばサメ、マグロ、イルカ等)を代理出産することを提案しています。子供を産みたいという欲求と美味しいものが食べたいという欲求を満たす為に、食べ物として動物を出産してみてはどうか?という議論を提示し、そして如何に可能にするかという方法も示します。

Ai Hasegawa、I WANNA DELIVER A DOLPHIN…

長谷川愛氏は、「人間」と「人間でないもの」の線引が難しい例として、イルカと人間を比較しています。

長谷川愛氏「人の考えは時代によって変わるので、いま私たちが「ありえない」と思っていても、未来から見たら「ありえる」ようになることが起こりえます。(中略)イルカについてリサーチをしていて初めて知ったことなんですが、インドではクジラ目の動物を「人間ではない人(non-human persons)」とする声明が出されました。人間ではないにもかかわらず、人間とみなしていいくらいの知性と感情があると考えられている。イルカ以外にも、死の概念や他者を思いやる気持ちを持っていたりする動物もいるわけですから、人間と人間でないものの線引きはきわどいものですよね。」

美術手帖・2018年1月号、バイオ・アート アートは生命の未来を更新するのか?、p.30、美術出版社

長谷川愛氏は、「20XX年の革命家になるにはースペキュラティヴ・デザインの授業」という本も出されています。

この記事の締めとして、この書籍の特典である「カード」を使って、「人間をやめてシャチになる」を考察します。

「カード」とは、「20XX年の革命家カード」というもので、5種類のカードを引くことで、アイデアを出せます。

  1. SDGsカード
  2. テクノロジーカード
  3. フィロソフィーカード
  4. アウトプットカード
  5. 革命家カード

それぞれのカード束から一枚ずつカードを引いて、それらを組み合わせたアイデアを考えると発想が柔軟になります。

しかし、あえて、「既にあるアイデアが、どのカードに対応するか」検討することで、文脈の整理に活用してみます。

1.SDGsカード

「人間をやめてシャチになる」というアイデアに該当しそうなSDGsの課題は…ありませんでした。

これは、このアイデアが社会的意義や社会課題を持たないということを意味しているのでしょうか。

もしかしたら、テクノロジーの使い方として、何らかの応用ができるのかもしれないとは言えます。

長谷川愛氏のカードが素晴らしいところは、SDGs「17の課題」に「18番目」が追加された点です。

あなた自身の痛み、苦しみ、またはその他の問題を考える。

SDGsカード、18「Dig your Pain and other issues.」「あなた自身の痛み、苦しみ、またはその他の問題を考える。」

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、SDGsカード「18」、ビー・エヌ・エヌ新社

エニオンの「痛み、苦しみ」は、「自分が人間であること」でした。

「人間であることを悩む」というのは、哲学的でもあり、例えば、ニーチェはツァラトゥストラにこう述べさせています。

あなたがたの悩みはまだ十分でない!

なぜなら、あなたがたは、自分のことに悩んでいるからだ。

まだ、人間そのものに悩んでいないからだ。

そうではないと言うなら、嘘をいっているのだ。

あなたがたはみな、わたしが悩んだことを悩んでいない。

ニーチェ著、氷上英廣訳、ツァラトゥストラはこう言った(下)、p.259、岩波文庫

2.テクノロジーカード

このプロジェクトで関連しうるテクノロジーとして、次のような記述がクラウドファンディングページにあります。

VRを用いたシャチ体感装置を作る。

シャチとしての身体の感じ方を体感できる環境を、VR技術を駆使して制作する。

テレイグジスタンスシャチロボットを作る。

シャチ型の水中ドローンと、コックピットとしてのVRシャチ体感装置を組み合わせて、テレイグジスタンスの手法でシャチになる体験を目指す。

(テレイグジスタンス(telexistence)とは、遠く離れたところにあるものをロボットやVR技術等を用いてあたかもそこにいるかのように感じながら操作する技術のことです。)

シャチの義体を作る。

シャチ体感装置とシャチロボットの技術を活かして高度な義体を作る。

実際にシャチの群れの中で生活する試みをする。

エニオン、【人間をやめてシャチになる】前人未到の挑戦のドキュメンタリー映画を創りたい!

この内容に該当しうる、テクノロジーをカードで端的に表すと、二つに分かれます。

サイボーグ技術

義手義足などの体の外側に装着する器具や体内埋め込み器具の発達により、身体機能の拡張を目指す技術。健康や美容目的から軍事まで、応用先は幅広い。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、テクノロジーカード「サイボーグ技術」、ビー・エヌ・エヌ新社

仮想現実(VR)、複合現実(MR)、拡張現実(AR)

人間の知覚を刺激し、新たなリアリティを生み出す技術。現在は主に視覚をハックして、あたかも別の空間にいるような没入感を感じさせるコンテンツが多い。今後は視覚のみならず、聴覚や嗅覚、または触覚を操作する技術も開発が進むだろう。また、目の前の景色にバーチャル情報を付与するARや、それらを包含してMRと呼ばれることも。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、テクノロジーカード「VR、MR、AR」、ビー・エヌ・エヌ新社

また、プロジェクトページでは触れていませんでしたが、生物学的なアプローチにも関心があるようです。

人間からシャチの変化は、生物学的には遺伝子の系統樹における「水平的な移動」に該当しうるからです。

細胞培養と幹細胞研究

道具や機械のなかで細胞や生体組織を培養する研究。「人工肉」の培養や、移植用の臓器など、さまざまな医療への応用と発展が期待されている。幹細胞とはiPS細胞やES細胞などに分化する(多分化)機能を持つ細胞のこと。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、テクノロジーカード「組織培養と幹細胞研究」、ビー・エヌ・エヌ新社

遺伝子編集/合成生物学

遺伝情報を編集する技術。さまざまな遺伝情報を切り出し、つなげることで、新たなふるまい機能を持つDNAをつくり出せる。人間の遺伝情報も出生前から改変できることで、デザイナーベイビーをつくりだせることが大きな議論となっている。バイオマテリアルや創薬にも役立つなど、今後さらなる成長の余地がある。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、テクノロジーカード「遺伝子編集/合成生物学」、ビー・エヌ・エヌ新社

3.フィロソフィーカード

このプロジェクトで関連しうる思考背景として、次のような記述がクラウドファンディングページにあります。

性に違和感をもつ人間はかつて誤った認識のもと、認知の矯正をする治療がされてきましたが、現在は本来の身体を手に入れる形での治療が行われています。

この歴史を見ても、 今後他の種になりたい人間は多様性として認められ、理想の姿で理想の生き方ができる未来が来るのではないか?

この生きづらさを解消する方法が見つかるならきっと有意義な試みになるはずです。(中略)

性的マイノリティと動物の倫理の歴史から、人間と動物の境界線が融けた世界の法律、社会制度、倫理を予測する。

エニオン、【人間をやめてシャチになる】前人未到の挑戦のドキュメンタリー映画を創りたい!

この内容に該当しうる、フィロソフィー(哲学)をカードで表すと、5つが関連しています。

脱人間中心

人間中心主義(人間を地球の中心と考え、地球の資源を使い尽くしていく状況)を脱しようとする考え。もしくは人間中心のデザイン(人間にとって価値のある体験だけを求めるデザイン)を脱してみて、人間以外の視点から世界を見つめてみる発想のこと。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、フィロソフィーカード「脱人間中心」、ビー・エヌ・エヌ新社

多文化共生

国籍や民族にとどまらず、老若男女、障害者や社会的マイノリティなど、各々が文化的な違いを認めながらも対等な関係を築き、共に生活すること。これからはこの「多」という言葉にどこまでの意味が含まれるようになるのかも重要な問いのひとつ。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、フィロソフィーカード「多文化共生」、ビー・エヌ・エヌ新社

ジェンダー、性

ジェンダーは「生物学的な性差」に付加された社会的・文化的性差を指す。性とはなぜふたつなのか?本当に二つしかないのか?その境界にグラデーションはないのか?文化的な性差もあれば、生物学的な性においても遺伝やホルモンレベルなどさまざまなレイヤーがある。性の定義は簡単なようでいて難しい。とある国では、17個に性が分類されているような文化圏もある。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、フィロソフィーカード「ジェンダー、性」、ビー・エヌ・エヌ新社

ナラティブ・アイデンティティ

自分とは何か。その一貫性を過去から現在、そして未来へと紡がれる自身の物語を通して自己の同一性をもつことがこれまでの(ナラティブな)アイデンティティの考え方といえる。一方で、個人のデータが幼少期から記録され、AIが個人の特性を判断するようになるとき、従来のそれとは異なるデジタル・アイデンティティが生まれるかもしれない。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、フィロソフィーカード「ナラティブ・アイデンティティ」、ビー・エヌ・エヌ新社

〇〇の権利、〇〇の自由

かつて、女性に参政権はなく、それより前には一般市民の男性にもなかった。いま当然と考える権利も、過去につくられたり、発見されたりしてきたもの。最近ではインターネット上のプライバシー保護の観点から「忘れられる権利」が誕生した。これから生まれる新たな権利や自由とは何だろうか。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、フィロソフィーカード「〇〇の権利、〇〇の自由」、ビー・エヌ・エヌ新社

エニオン自身は、哲学的な意義を探求する時期と、実際的な行動を重視する時期が交互に訪れるようです。

4.アウトプットカード

このプロジェクトのアウトプットは、「映像、ドラマ、映画」になります。

エニオンの今までの経験が生かされるので良い表現方法になると思います。

映像、ドラマ、映画

このプロジェクトの実現のためにさまざまな分野の専門家との繋がりを作る必要があると考え、研究者専門の映像制作会社の起業に共同創業者&映像クリエイターとして参画しました。

また関連しそうなアーティスト、アスリート、哲学者、研究者、さまざまなご縁のもと助言をいただくことができました。(中略)

映画の中には専門的な内容や難しい用語も出てくるでしょう。

私は科学の楽しさを伝えるためにイベントや実験教室を行ってきました。現在は研究をわかりやすく映像で伝えるクリエイターをしています。

この経験は、難しい学問を噛み砕いて映像で楽しく伝えることに役立つと考えています。

単にエンターテイメントである以上に、 教育的価値のあるコンテンツを作ることも目指します。

エニオン、【人間をやめてシャチになる】前人未到の挑戦のドキュメンタリー映画を創りたい!

5.革命家カード

このプロジェクトで関連しうる革命家として、次のような記述がクラウドファンディングページにあります。

この目標の実現にあたり、先述のThomas Thwaites氏の活動を参考にしました。

エニオン、【人間をやめてシャチになる】前人未到の挑戦のドキュメンタリー映画を創りたい!

トーマス・トウェイツ

イグノーベル賞受賞デザイナー。「ゼロからトースターを作ってみた結果」「人間をお休みしてヤギになってみた結果」などといったテクノロジーと文化とDIY精神に溢れるプロジェクトを提案している。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、革命家カード「トーマス・トウェイツ」、ビー・エヌ・エヌ新社

また、上述したステラーク氏の作品も関連性が強いです。

アーティスト。「人体は時代遅れである」という観点から、人体の機能拡張に焦点を当てた作品が多い。ネットに接続された電子式筋肉刺激装置によって自分の体を遠隔制御させる試みや、蜘蛛に似た6本足の歩行機に登場するパフォーマンス、ネット接続された人工の耳を腕に移植する映像作品《Ear on Arm》などがある。現在も耳が腕に存在している。

長谷川愛、20XX年の革命家になるには スペキュラティヴ・デザインの授業、革命家カード「ステラーク」、ビー・エヌ・エヌ新社

補足:本記事の執筆動機

以上の背景からは、「人間をやめてシャチになる」プロジェクトは、スペキュラティブデザインの文脈との相性が良いことがご理解いただけたかと思います。

このような長文の記事を書こうと思ったきっかけは、エニオンが先日に「月曜から夜ふかし」に出演したことと、その内容が筆者から見て「悲しい」と感じられたからでした。

この番組自体は、エニオンと、彼のシャチの話を番組スタッフに紹介した友人との会話がメインでした。

構成自体は、一般ウケするように、エニオンの話を友人が「意味不明」として、笑うという内容でした。

絵面も、エニオンがシャチに近づくために頭髪と眉毛を脱毛している姿など、インパクトがありました。

傍から見ると、「(エニオンは)とても正気とは見えない」と思われても仕方のない面もありました。

実際、彼は精神科に通院して薬を処方され、毎年6~8月の間は感受性が高まることを開示しています。

こうした症状を抱えながらも、映像制作などの表現活動を続けているエニオンに対し、友人が理解できない様子を強調されていたのは、狂った人間を友人が見てドン引きする様を大衆から笑われるという構図に見え、「健常者と障害者の分断」という見方ができてしまうという旨をエニオン本人に放送後に私は伝えたのでした。

しかし、「健常者と(精神)障害者」という分け方ではなく、「一般人と芸術家」という見方も正しいのではないかと思い、その見方についてエニオンからも「興味深い」とのコメントを受けたので、「月曜から夜ふかし」に関しては「尺の都合」と「番組的面白さ」を考えると上記のような内容になるのも仕方ない部分もあったとは言えるものの、エニオンが日頃から言及していたアートやデザインの文脈があったうえで「人間をやめてシャチになる」プロジェクトが生まれている面もあることを明らかにしていくことも意味があると思い、投稿(公開)に至りました。もちろん、エニオン自体の幼少期からの自分の身体への違和感が大きな要素としてあるのですが、その感覚を支えるかのような今日の現代アートの素養がエニオンにあることを示すことで、短い尺の中で表現しきれなかった彼の多面性を「理解する」助けとなり、彼の名誉と尊厳を守ることに役立てばこの長文にも少しは意義が生まれることでしょう。

一つだけ注意していただきたい点は、「(精神)障害者=芸術家」「健常者=一般人」という安易な図式として、私は芸術を捉えてはいないということです。「精神を病まなければ、優れた芸術家になれない」という考えには、明確に異を唱えさせていただきたい。

この家に住む作者の小林さん(※引用者注:小林伸一さん、アウトサイダー・アーティストの一人)は、家中に絵を描き終わったいま、木を削って小さな下駄の制作を続けていた。「ボケ防止のためにね」と話すその背後には、小林さんの腰の高さを優に超える下駄が山積みになっていた。その量は寝室などほかの部屋を占領し、生活に不便を感じるほどだ。それでも小林さんが制作の手を止めることはない。みずからの衝動の赴くままに表現行為を続け、つくらなければ死んでしまうような人が、ここにはいる。(中略)

小林さんのように世の中にはみずからを「表現者」とすら認識していない人たちが大勢いる。そうした人たちの「表現」に対して大雑把に名付けられた呼び名が、「アール・ブリュット(生の芸術)」だ。その中心として考えられているのが、福祉施設を中心に独自の発展を遂げてきた障害者のアートである。先ごろ、障害者文化芸術活動推進法が成立し、この障害者のアートを中心とした「アール・ブリュット」に対しては「社会包摂」や「多様性」を謳い文句に、国レベルで支援の輪が広がり、ますます盛り上がりを見せている。

でも、「障害者のアート」と「アール・ブリュット」は同じじゃないし、そもそも障害がないと優れた作品が生み出せないわけじゃない。フランスの芸術家、ジャン・ドュビュッフェが提唱した概念「アール・ブリュット」は、それまで僕らが理解することのできなかった表現を、理解可能な領域に押し上げてくれた一種の発明だ。しかし、裏を返せば真に理解不能な表現は、黙殺されたり別の理解可能なものへと変換されたりしているということになるだろう。それは障害者の表現だけが優遇され、障害のない表現者は周到に排除されている日本の現状とどこか似ている。誰もが「表現者」となる可能性を秘めているはずなのに、まるでなんらかの欠損がなければ、突飛な表現ができないと言わんばかりだ。いつから僕らは、自分が見たいもの聞きたいものだけを選んでしまうようになったのだろう。世界は、こんなにも多様性に満ちているはずなのに。

櫛野展正、アウトサイド・ジャパン、pp.2-3、イースト・プレス

芸術がすべての「人間」に開かれたものであるという前提で、それでも「生命」を賭けて芸術に取り組んだ、アーティストの言葉をエニオンへのエールの言葉として引用し、記事を締めさせていただきます。

岡本太郎氏『今日の芸術』

人に先んじ、無理解とたたかいながら問題を出す。そして、新しい美を発見していく。猛烈なぶつかりあいが刺激になって世の中を進めていくのです。その努力はたいへんなものです。しかしそれが、一般に認められ、つまり公認されてから、そうでなければぐあいがわるい、時代遅れになるという理由で、新しい形式をとるというのとは、まるでちがったことです。一見、最初につくられたものと、あとでつくられたものとは似ています。なんといってもパターンのしき写しですから、形態的には同じようで、ちょっと見きわめがつかない。むしろ、にせものだけに、よくできています。よどみなく抵抗なく仕上がっており、それだけに見る人には消化しやすく、喜ばれるばあいが多いのです。エッセンスは薄めて飲むと飲みやすくなる。

しかし、最初に抵抗によってつくられたものと、あとで抵抗がなくてつくられたものとは、その中にこもったけはいがどうしてもちがいます。内容がちがうのです。一方は、じっさいに激しさを内に秘めた、純粋の芸術的な発想。たいへんな努力と精神力によって自分自身をうちひらいていった、苦悩によってだけつかみとる何ものかであり、他方は、それを応用してつくった、惰性的な気分でも受けいれられるようになったもの。一方が先駆的役割で、いわば悲劇的なのに、一方は、だれにも安心されるあたらしさなのです。まさにこのほうは、モダニズムです。流行に即したスマートさがあるのです。

モダニズムは、あくまでもここちよく、生活を楽しくさせるものであるかもしれないけれども、ふるいたたせて、生活からあたらしい面をうちだす、猛烈な意志の力をよびおこすものではありません。

そういう一般的なイージーな気分に対して闘おう、それに対して、なにかあたらしいものをつかみとって、次の時代に飛躍していこうという少数者は、時代にただちに受け入れられない。認められず、孤独でも、絵にならない絵、つまり芸術というものをおしすすめていかなければならないのです。芸術のアヴァンギャルドの運命です。そういう人たちこそ創造者、芸術家の名に値するのです。しかし、少数者といっても、あたしは芸術家じゃないから、少数者にはいらないと考えてはなりません。どんな人間の精神のなかにも、やはりこの二つのものが、あるものです。つまり、生活の安易なたのしい愉楽を求めてーこれはそうでなければ生きていかれないから求めるという面と、やはりそれでは満足しないという気持が、どんな安逸な考えをもっている人にも、心の奥底にはあるものです。そういうもの、いわば、人間のはげしい生命力のようなものが、ほんとうのアヴァンギャルド、芸術家の創造に対して、やはりピンとひびいてくるのです。

岡本太郎、今日の芸術 時代を創造するものは誰か、pp.92-93、光文社知恵の森文庫

草間彌生氏『無限の網』

離人症とは学問的には「デペルゾナリザリシオン」、つまり人格喪失体験の現象を指すが、現実があまりにも苦痛である時、その現実を消滅させる手段を人間は持っていて、その人間の生得的な防衛作用がこうした離人症の現象を生み出すという。とにかく、そうなると、現実の苦しさよりももっと恐ろしく苦痛になる。自己、世界、時間を失って存在がまるごと無化してしまうような体験よりは、現実の地獄の方がまだましなのである。そこには少なくとも苦痛を感じている自己を実感できるのだ。

こうした苦しみや不安や怖れと日々闘っている私にとって、芸術を作りつづけることだけが私をその病から回復させる手段だった。私は芸術という糸をたぐりながらかろうじて生きていく道をさぐりあてたが、もしそれがなかったら、とうの昔、私は私をとりまく環境に耐えられずに自殺していたにちがいない。今もなお思い出すが、何度自殺しようと、中央線の汽車が来るのを待って、線路わきに立っていたことだろうか。それを救ったものは、手さぐりに歩み出した芸術への導きだった。

そして、その芸術への道を発展させ、より大きく開花させるためには、この日本にいては絶対ダメだったのだ。ここには、両親があり、家があり、土地があり、しがらみがあり、因習があり、偏見があった。人は何であるかということの生死の境目で闘っている私の芸術にとって、生きることと死ぬことはどういうことであるかという場で作りつづけている私の芸術にとって、この国はあまりにも小さく、卑しく、封建的で、女性への軽蔑に満ちていた。私の芸術には、もっと限りなく自由で、限りなく広大な世界を必要としていた。

草間彌生、無限の網 草間彌生自伝、pp.99-100、新潮文庫

村上隆氏『芸術起業論』

ひきだしを知らずに作られた芸術作品は、「個人のものすごく小さな体験をもとにした、おもしろくも何ともない小ちゃい経験則のドラマ」にしかなりません。小さな浪花節的な世界です。日本人はそういう生まれてから死ぬまでの小さな経験則が好きなんですけど、その程度のドラマしか設定できないことは、世界の表現の舞台で勝負する上では欠点になるのです。な〜んちゃって書家の標語レベルならまだいいんです。小さな個人のドラマしかなくても言葉でわかるから。ところが小さな個人のドラマが抽象絵画に乗せられたら、誰も理解してくれません。芸術家は歴史を学ぶべきなのです。どういう作品が人々と接点が多いのか。どういう作品が人々と接点が少ないのか。歴史を学んだら、どうなるか。人々とどういう接点を持つのかを選択していくことができます。(中略)

徹夜をするかしないかなんて、美術の地獄の世界を生き抜くつらさに比べれば、つらさの判断基準にもなりません。「芸術のビジネスの世界でタフな戦争をし続けることから、この人は、逃げているんだ。一夜の徹夜の陶酔と興奮で酔えるヤツだったのか。徹夜したことでほめられたいのか。そんな学生気分の徹夜の方が、世界と渡りあうことよりも、優先順位が高かったのか」志も夢も違っていたのかなと、ぼくは残念に思うのです。同じものを見てきていたはずなのに、同じものではなかったのかということはよくあります。徹夜をすることは「地獄っぽく」は見えるのかもしれませんけど、地獄でも何でもありませんよね。芸術における地獄というのは、もっとこう、寝ても覚めても出口も入口もないねじれた空間なわけで……そういう芸術の矛盾を抱える苦しさを見ようとしないで「一生懸命」という幻想の中になぐさめを見いだしている場合ではないでしょう。表現の世界では、みんなが、実行不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。アイルトン・セナが、超えられない時間の壁に突入していくような種類の挑戦です。ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界。集中力と体力がきれたら、すぐに死ぬしかない世界。でも、この世界に入った以上、みんなが望んでいるものはその「実現不可能なもの」なのだから、何でそこに突っ込んでいかないんだよと思うんです。不可能に挑戦してきた、満身創痍の先人たちを見てきました。手塚治虫さんは、きっと「何か」を見たんだと思います。歴史に名が残るかどうかよりも、その「何か」が見えたかどうかが気になるのですね。ぼくはその「何か」を見たいと願い続けてきました。そのためならぼくは、地獄を見てもいいと思いました。「日本がアメリカに負けるのは当たり前だ」父親からそう聞かれて育ったために、苦しそうなアメリカにも飛び込んでみました。ただ、地獄を見たい人なんて、本当はほとんどいないんじゃないかとも感じるんです。いざとなると、みんなすぐ逃げていきますし、ぼくだってツラくてツラくて時々逃げだしたくなりますから。そういう因果な世界なんですね。(中略)

まあ、アーティストたちはそういう気持ちをそのうちまた忘れて怠惰な生活に戻るものだから、スポーツ選手のコーチがフォームやポジションうをしつこく矯正するように直していくんでしょうけどね。ただ、うちのアーティストたちは、みんな、いい作品が新しくできるまでの潜伏期間がだんだん短くなってきていますから、ちゃんと鍛えられているとは思います。そういう強化人間を作りあげることは日本人は得意だと思います。漫画家もそうです。人体実験のように人材をしめあげる。犠牲者も出る。何人かの漫画家で試した実験の成果を才能のあるヤツにくれてやる。この日本的手法は、巨大な才能を育てあげるためには相当有効なのだと思うんですよね。ぎゅうぎゅうにしめあげていると、しめあげているだけあって、やっぱり最低でも一回は、光が見えるかのような瞬間がやってきます。これは経験上だいたいの人がそうです。死ぬまで光が見えないよりは、苦しくてもつらくてもたまらなくても光を見た方が絶対にいいのだとぼくは思います。表現の世界に運命を賭けたんでしょう?まぶしい光を一回でも見たんだったら、もう他のものなんて何もいらないぐらい幸福なのではないでしょうか。だから、ぼくは、漫画家がおかしくなっても、ぼく自身変になってもぜんぜんかまわないと思います。「かつてすばらしい作品を描いていたのに、アホみたいになっちゃった」これ、ぜんぜん、問題ありません。すばらしい作品を描いていた人は、すばらしい作品を描いていた瞬間に、それまでの人生では見たことのないような光が見えていたはずです。それだけで、もうすばらしいじゃないかと思うのです。

村上隆、芸術起業論、pp.159-160、pp.192-194、pp.217-218、幻冬舎

この記事を書いた人

両角光平。

合同会社エスクリップ代表。

ただのシャチのファンです。

写真は5年前の鴨川シーワールドのものです。

好きな鴨シーランチは「シャチライス」です。

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