哲学

たった三行で理解する「超人思想」

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目次

  • 今北産業
  • 著者紹介
  • 人間よりも高い種族
  • 〈人間の道徳〉と〈超人の倫理〉
  • 「教育」の問題点
  • 「いじめ」や「差別」の問題点
  • 「超人思想」と「西洋哲学」
  • 倫理作用Σ
  • 倫理作用Π
  • 倫理作用Ψ
  • まとめ

今北産業

先日、こちらの記事について、

「文章が長すぎて読めない」

とご意見をいただきました。

文字数は約30000字でした。

「長いな」と思われても仕方ないですね。

そこで、適切な文章の量をいろいろと調べました。

そして「あるサイト」の文章に目を引かれました。

たった三行に

私達は

すべてを込めます

たった三行?

と思うかもしれませんが、その三行で状況を説明するのが私達の使命です。

長文を書いても誰も読みません。

三行という数は短すぎず、長すぎず、情景を伝えるのにちょうど良い数です。

川柳や俳句も五・七・五という三行のリズムです。

三行で表す説明は日本人に刻み込まれたリズムなのかもしれません。

三行にすべてを込めるために、職人が一つ一つ丁寧に言葉を紡ぎ出します。

今北産業、私達の使命

「なるほど、これだ!」と思いました。

そこで今回は、「超人の倫理」という本を基にして、

「超人思想」に関する文章を三行に圧縮することで、

哲学的内容が通じるのかを試してみたいと思います。

(注:今北産業はネットスラング「今来た三行」に由来する架空の企業であることにご注意ください)

著者紹介

「超人の倫理」の著者は江川隆男氏です。

2021年現在、立教大学現代心理学研究科映像身体学専攻の教授です。

早速、本の冒頭で書いてある著者の体験談を三行でまとめてみます。

私は、十代の頃からとにかく人と同じ方向を向いているのが嫌でたまらなかった。学校の教室内がその最たるものでした。つまり、全員が同じ椅子に座って教壇の方を向いているような状態。とにかくみんなが一方向を向いている状態。それは、私にとっては、耐え難い意味、方向性をもって現れたのです。

それ以上に嫌だったのは、全員が目に見えないものに向かって同じ方向を向いていることです。それは、人と同じ意志や欲望を植えつけられることであり、また、その結果として同じ理想的な未来像へと近づいていくべく、そこへ向けてひたすら努力し邁進していくことでした。

このような一般的人生のなかを生きていくことは、私にとっては、自分の一つの生を生一般のなかに溶かし込んでしまうこと以外のいかなる意味ももたないように感じていました。(中略)

言い方を換えれば、私がそのとき感じた感覚は、何とか社会や習慣に先立って生きようとする仕方、あるいはその生存の様式を追求することだった、と今では理解しています。このことが、他人に対していつも例外性を示しつつ、他者に対して不可解な者になりたい、という気持ちとして現れていたように思います。

言い換えると、それは、模範解答を拒否し、与えられた問題をすり抜け裏切り続けて、そうした問題よりも少しでも本質的な問題を構成し提起すること、そんなことであったような気がしますーしかし、それこそがまさに哲学であり、倫理学なのです。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.5-6、河出ブックス
  1. 教室でじっとしていられなかった
  2. みんなに合わせるのが苦手だった
  3. だから哲学者、倫理学者になった

たしかに三行だとわかりやすいです。

人間よりも高い種族

次に、「人間よりも高い種族」としての超人になるために必要なことを整理します。

この「人間よりも高い種族」とは何でしょうか。それは、まさに「超人」のことです。個人の個人化や個体化、あるいは主体化というのは、何よりも超人に達するための試み、実験以外の何ものでもありません。そして、それ以上に、個人の個人化とは何よりも「特異化」ーこのもの化ーという変様を意味しているのです。

(中略)

超人という「もっとも高い種族に到達するため」には何が必要か。

(1)個人が個人化すること。

(2)もっとも個人的な手段を用いての試み。

(中略)

倫理作用は、けっして人間のうちで完結したような働きではありません。だからと言って、それは、単に超人のものでもありません。

それは、あくまでも人間のうちにありつつも超人への強度と方向性をもったものなのです。というのも、倫理作用は、あくまでも超人の原因となるような、人間のうちにある働き以外の何ものでもないからです。

そろそろ、私たちは、真剣に超人についての話をしようではありませんか!

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.7-11、河出ブックス
  1. 超人になるために必要なことは二つある
  2. 一つ目は、個性を発揮すること
  3. 二つ目は、個性を発揮することそれ自体にも個性があること

確かに個性的な人はときに超人と見なされることがありますね。

〈人間の道徳〉と〈超人の倫理〉

ここで、書籍の核となる、「人間と超人の対比」を見ていきましょう。

私たちは人間です。だから、人間らしく生きるのではなく、むしろ超人を意識して生きる努力をしましょう!人間のふりをして、人間のように、人間的に生きるのではなく、超人の振る舞いを身につけようではありませんか。

超人は、人間よりも道徳的に優れた種なのではありません。そうではなく、超人は、人間の部分のうちにあって、〈善/悪〉の彼岸や〈真/偽〉の彼方への多様な働きそのもののことです。

(中略)

不道徳は、いつも道徳の境界線を乗り超えるときに、「今回だけ、今回だけ」と呟きながら意欲するような弱い意志しかもっていません。これに反して、永遠の繰り返しを欲すること、すなわち日常的な価値感情に反して感じることは、けっして一回限りのことではありません。超人の感性のもとでもっとも大きな部分を形成している精神は、こうした強度を有しているのです。

(中略)

哲学とは何か。それは、〈善/悪〉の彼岸を目標とすること、つまり、生一般ではなく、一つの生にもっとも近い此岸の〈よい/わるい〉を認識することです。

さて、ここで私は、人間と超人とを以下のように区別して定義したいと思います。

定義1

人間とは、歴史や社会や習慣が準備し与えるものに適応すべく、それらの諸問題に対して解答的な生き方を望むもの、あるいは、それゆえ歴史や社会の習慣の後に立って存在する様態のことである。

定義2

超人とは、歴史や社会や習慣が準備するものに先立つような生き方を欲望するもの、あるいは、それゆえ歴史や社会や習慣に対して問題構成的で提起的な存在の様式のことである。

人間は、若干の超人である。その若干の部分について倫理学があり、これを成立させる倫理の働きがそこにはあります。すなわち〈人間の道徳〉に対する〈超人の倫理〉。

しかし、こうした道徳と倫理は、あれかこれかといった選択の問題ではけっしてありません。というのも、人間は、たしかにこの二つの位相を同時に確実に生きているからです。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.15-19、河出ブックス
  1. 人間は、人生クイズの回答者
  2. 超人は、人生クイズの出題者
  3. 人間は道徳的、超人は倫理的

正しい解答を回答するより、

良い問題を出題するほうが、

すごいということでしょう。

「教育」の問題点

回答者と出題者の対比は、教育に関する議論とつながります。

個人の人生は、社会的・歴史的に予め準備されたいろいろな問題に対して、つまり自分の外から到来する諸問題に対して、より善い解答を与えようとするためだけにあるのではないということです。たしかに、より善い解答を与えられるような人間であれば、例えば、単純にその人間は社会でより高い給料がもらえるかもしれませんが、反対に悪い解答しかできないのであれば、その人間は当然低い給料のもとで生きていかなければならないでしょう。

したがって、私たちの教育は、ただひたすらより善い解答を与えられるだけの人間を生み出そうとする努力の名称となってしまうわけです。各人のうちにある若干の超人は窒息死し、それゆえ超人を示す〈よい/わるい〉は単なる私秘性として、あるいは趣味の問題として片付けられてしまいます。

ところが、個人は、単に解答を求めたり与えたりするだけの、あるいは問題にひたすら答えるだけの動物ではありません。個人は、それ以上に、何よりも問題を構成し提起する動物、問う力をもった動物として存在しているのです。(ニーチェは、あらゆる価値の価値転換という問題提起をしました。これこそ最高に問う力をもった問題なのではないでしょうか)。

本当の教育の問題はここにあります。教育とは何か。大事なのは、既存の問題に応答する力を鍛え、より善い解答を可能にするための教育だけでなく、問題提起する力、問題を構成する能力を養うための教育も必要だということです。

このように考えると、実は知力や判断力、感性や想像力が、いかにして個人化するための手段として用いられていないかが理解されるでしょう。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.26-27、河出ブックス
  1. 「教育」の問題点は、問題に「回答」する力ばかり鍛えていること
  2. 「教育」を通じて、問題を「提起」する力も鍛えなければならない
  3. 「教育」は一般的には個性の発揮にはつながらないので注意が必要

人生の発達段階での出題に「善い回答」をし続ければ、生きやすいですからね。

あえて問題を「よく提起」する力を鍛えることは、実質的な得にはなりにくい。

教育にどちらか一方の機能を求めるのでなく両方とも必要というのも重要です。

最も簡単に両方を鍛える方法は、生徒同士の議論や、問題の出し合いでしょう。

いかにして問題を与えられる(受動)から与える(能動)に頭を切り替えるか。

鍛えた能力を自分自身の個性につなげていくかは、個人の姿勢次第であります。

「いじめ」や「差別」の問題点

教育の問題点を述べたところで、議論を「いじめ」と「差別」に移します。

いじめや差別の根本的な問題点は、人間が自分たち相互のさまざまな違いを肯定できずに、否定的に考えてしまい、その結果として、その否定をすべて相手の側に帰属させてしまうことにありますー「否定されて当然だ」、と。

差異を肯定することーこれが、いま私たちのすべての営みに欠くことのできない動詞ではないでしょうか。いじめや差別は、結果的には自分自身のうちに不和を起こすことになります。というのも、この場合の差異は、あくまでも自分と相手との間に存在しているのであって、どちらか一方側にあるわけではないからです。つまり、差異を肯定することは、実はニーチェが述べていた、「自分自身との和解に達する」ための方法なのです。

この肯定性から何が知覚されるようになるのかが大事なのです。それまで見逃していた、あるいは見ることの出来なかった点が、その対象のうちに知覚できるかもしれません。

では、差異の肯定は、差異を否定しようとする者たちをも肯定するのでしょうか。残念ながらあるいは不幸にも、必ずしもそういうことにはならないでしょう。というのも、差異の肯定は、単に他者を無差別に承認することではないからです。

なぜなら、差異の肯定とは、多様性の肯定だからです。差異の肯定とは、自分自身をも含めた他者の多様性の肯定のことなのです。したがって、差異の否定が多様性の否定に直結しているものであれば、私たちはその否定との闘争をやはり繰り広げる必要があるわけです。差異の肯定=自分自身との和解=他者の多様性の肯定。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、p.60-61、河出ブックス
  1. 「いじめ」や「差別」は自己否定につながる
  2. 違いを肯定すると、新しい発見ができるかも
  3. 「いじめ」や「差別」されたら戦うしかない

自分の外に対して攻撃的になればなるほど、

自分自身に対して攻撃的になってしまうと。

そして「やられたらやりかえす」の重要性。

「不寛容に対する寛容」は難しいのですね。

「超人思想」と「西洋哲学」

超人思想を西洋哲学と関連付けるあたりから、内容が一気に難しくなっていきます。

こうした意味での〈倫理-哲学〉ー正確に言うと、〈倫理学-第一哲学〉ーを西洋哲学のなかで体系的に思考したのが、とりわけ十七世紀のオランダの哲学者、バルーフ・スピノザ(一六三二-一六七七)であり、十九世紀のドイツの哲学者、フリードリッヒ・ニーチェ(一八四四-一九〇〇)であり、また二十世紀のフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(一九二五-一九九五)という人たちです。

彼らの思考は、つねに第一哲学としての〈エチカ〉の思考を基礎にして、哲学や道徳を、あるいはそれに関する人間精神を批判的かつ創造的に考察しました。

本書では、彼らの思想のなかから、スピノザからはとりわけ〈精神と身体の並行論〉と〈非意思主義〉を、ニーチェからはとくに〈遠近法主義〉を中心として、その倫理作用を描出することを目指しています。

そして、ここからわかることは、そのすべての倫理の力あるいは作用に関して、ドゥルーズが明確に論究したような、〈個別性-一般性〉(particularite-generalite)と〈特異性-普遍性〉(singularite-universalite)とを区別する仕方やその考え方が不可分になるということです。〈このもの〉とは、まさにこの後者の〈特異性-普遍性〉のもとで考えられるものの有り様です。

さらには、この〈個別性-一般性〉と〈特異性-普遍性〉との差異を縦糸として考察された、〈精神と身体の並行論〉を倫理作用Σ(シグマ)として、〈非意思主義〉を倫理作用Π(パイ)として、〈遠近法主義〉を倫理作用Ψ(プサイ)として、それぞれがもつ価値転換的な問題を、独自の仕方でここで明確に提起したいと思っています。

ここでいう「独自の仕方」とは、これらの思想が経験論的水準においてどのように半道徳主義としての倫理作用をもつのかということを一貫して示そうとしていることにあります。

言い方を換えると、その独自性は、本書で扱うテーマのすべてが〈善/悪〉ではなく、〈いい/わるい〉の位相に明確に関わっていることを論じているからでもあります。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.24-25、河出ブックス
  1. スピノザからは〈精神と身体の並行論〉=倫理作用Σと〈非意思主義〉=倫理作用Πがわかる
  2. ニーチェからは〈遠近法主義〉=倫理作用Ψがわかる
  3. ドゥルーズからは〈個別性-一般性〉と〈特異性-普遍性〉が区別できないことがわかる

う〜む。

「そもそも、倫理作用とはなんぞや」

と単語がわからないのがきついです。

「三人の哲学者がなんか重要そうだ」

ということだけは伝わってきますね。

以下で倫理作用を見ていきましょう。

倫理作用Σ

一つ目は、倫理作用Σに関する記述です。

超人を単なる精神的存在と考えられてはならないでしょう。超人は、身体をもたないのでしょうか。そんなことはありません。しかし、私たちは、超人がどのような身体を有しているのかを知ることができません。

しかし、それでも私たちが先取りして理解しうる点があります。それは、「別の身体」への移行が精神の実質的な変移に必然的にともなっているだろうということです。

というのも、倫理学は、精神だけを特権的に扱い、身体に対して精神が優越した存在であるなどと決して考えないからです。精神と身体は、まったく異なっているが、つまり一方は観念という非物体的なものから構成され、他方は延長物から形成されているにもかかわらず、存在論的にはまったく対等な存在だということです(精神と身体の並行論)。

これを突破口として人間身体の変様について考察しつつ、その生成変化のなかから超人への身体ー別の身体ーの有り様を思考可能にすることができるのです。

(中略)

倫理学は、心や精神それ自体を、あるいはその都度のそれらの状態を単に〈〜である〉という固定化された同一性の相において捉えるのではなく、つねに〈〜になる〉という相のもとで、つまり生成変化の相のもとで理解しようとします。

要するに、この生成変化の相における思考そのものがまさに批判の姿だと言えるでしょう。批判とは、まさに思考の生成変化のことなのです。

しかしながら、哲学は、長い間、同一性のもとでの思考を、つまり道徳的な思考を展開することとに努力し続けてきました。差異よりもはるかに同一性に価値を置いてしまうという思考の癖、この一見すると哲学的な構えこそが、実は道徳なのです。

私がここで言いたいのは、第一に、思考を同一性という道徳的呪縛から解放すること、すなわち思考を生成変化の相もとで捉えるということであり、第二に、思考あるいは精神だけを特権化するのではなく、精神に対する価値を身体にも認めるということです。

批判は思考の肯定的な働きの一つです。では、この肯定は、そもそも何についての肯定なのでしょうか。それは、端的に言うと、身体の肯定です。

(中略)

精神がこうした生成変化の相における価値を見出すのはまさに身体の変化・変様こそが精神にとっての第一の対象だからです。このようにして、超人の倫理作用は、心や精神について言われるだけでなく、それ以上に身体のうちにこそその働きの価値を認めなければならないわけです。

こうした心身の並行論の働きを〈倫理作用Σ〉と呼ぶことにしましょう。このシグマは、「身体」という意味をもつギリシャ語のsoma(ソーマ)の頭文字からとりました。

(中略)

心身の相互作用論とは違って、心身の並行論が有している意義は次の点にあります。

(1)精神と身体との間の相互の因果関係性を完全に否定して、精神と身体を実在的に区別すること。

(2)一方が能動であれば、他方も能動であり、一方が受動であれば、他方も受動であるという完全な並行関係を積極的に定立すること。

(3)精神と身体は相互に異なるが、しかし存在論的にはまったく対等であると認めること。

これこそが、スピノザが形成した倫理作用Σなのです。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.73-84、河出ブックス
  1. 倫理作用Σとは、精神と身体が能動、受動の状態を並行する関係とみなす倫理的な作用のこと
  2. 超人とは、固定化された〈〜である〉ではなく、生成変化する〈〜になる〉状態で捉えられる
  3. 1「精神と身体の並行関係」と2「超人の生成変化」から「精神と身体の生成変化」が導かれる

「超人は精神だけでなく身体も変化し続けている」と言えそうです。

簡単な例は「身体トレーニングは超人化の一つの手段」でしょうか。

「自分とは〜である」と固定化すると、変わらない自分に苦しみ続けることがある。

「自分とは〜になる」と変化する可能性を認めると、苦しみがなくなることがある。

精神の変化を実感するのは難しいので、身体の変化を先に起こして、実感してみる。

すると、凝り固まった精神も変化できるのではないかと希望も湧いてくるでしょう。

倫理作用Π

次に倫理作用Πを見ていきます。

人間とは何か。これほど問われた問いはないでしょう。しかし、もう一度問いましょう。人間とは何でしょうか。

わたしはここで次のように言いたいと思います。

ーそれは、超人を生み出すことなく行き続けようとする生物の総称である。

さて、ドゥルーズに倣って、ニーチェのニヒリズムを三つの段階ー否定的、反動的、受動的ーに区別してみましょう。

これらの三つの段階は、二つの移行段階として理解できます。

第一は、否定的ニヒリズムから反動的ニヒリズムへの移行、すなわち神から神の殺害者(=反動的人間)への移行です。

第二は、こうした反動的ニヒリズムから受動的ニヒリズムへの移行、すなわち、こうした神の殺害者であり、神の位置を奪ってそこを占有する存在者となった人間から最後の人間(=受動的消滅)への移行です。

ニヒリズムとは、まさにこうした虚無から、つまり否定性からしか物事を理解しないし行動に駆り立てられることもないような生物、つまり人間の道徳的な営為全体についての名称なのです。

そうなると、次のように言うことができます。人間の歴史のなかの一つとしてニヒリズムがあるのではなく、人間の歴史のすべてがニヒリズムに依拠した物語にあるのだ、と。

ニヒリズムとは何でしょうか。

第一にそれは、自分たちよりも高い価値ーすなわち、個々の人間の生を超越した価値、例えば〈善〉あるいは〈真〉ーを想定して、自分たちの現実の状態、つまり実存の価値を低く見積もるという人間に本質的な傾向性のことです。ニヒリズムとは、自分たち人間のこうした特性を歎きつつも、結局は人間の全歴史過程を作ってきた原理だと言って良いでしょう。

第二にそれは、そうした諸価値がまやかしだと気付いて、自分たちの実存を遅ればせながら肯定しようとするが、実際にはすべて手遅れで静かに死に行くことしか残されていないことに人間が気づいていく過程でもあります。

私たちがいる地点は、実はこの第二の過程のほんの入口にあります。しかしながら、それでも重要な問題が、この地点ではじめて提起可能になります。つまり、こうした受動的消滅に対して、別の仕方での消滅を考えることができるということです。それは、まさに積極的な消滅の仕方、すなわち「能動的破壊」です。

(中略)

ヒロシマであれ無数の核実験であれ、チェルノブイリであれフクシマであれ、それらの知覚には、もはやこの世界に神など存在しないということの歎きではなく、むしろその神の位置を人間が占めているということの絶望が潜在的にともなっているのです。

そして、こうした観念を排除できるような観念は、ニーチェが言う、受動的ニヒリズムにおける「最後の人間」の死とともにあるでしょう。事態はすべて、受動的ニヒリズムへの移行を指し示しているにもかかわらず、神の位置を占有する反動的な人間は、つねに反動的ニヒリズムに固執するのです。

そんなわけですから、反動的な生を克服するような認識に一気に活気づけられるようなこと(=能動的破壊)は、人間にとって稀なことです。それならば、せめて受動的に死ぬべき(=受動的消滅)を徐々に学ぶべきであるのに、それさえも未だ知ることのない人間、それこそが意志に取り憑かれた動物としての、あまりに人間的な人間の姿なのです。

意志こそ、まさに超人の原因になろうとする人間にとっては、最大の無用の長物でしょう。スピノザに倣ってもう一度言う必要があります。知性と意志、認識と意志は同一である、と。

意志とは、「目を開けながら見ている夢」という場合のまさにこの「目」のことです。

では、自律した能力としての意志の消滅は、どのようにして可能となるでしょうか。それは、能動的には、別の仕方で思考し知覚することー本書で述べてきたような倫理作用ーを発生的要素すること以外にありえないでしょう。

しかしながら、人は、知性と意志を、ニヒリズムにおける〈無への意志〉から〈意志の無〉に向けたその完成のうちでしか、つまり否定的な仕方でしか一致させることができないでしょう。ニヒリズムの諸過程を経ずして、人間が非意志主義を肯定することはまずできないでしょう。

なぜなら、最後の人間の「受動的消滅」とともに、人は、はじめてこれと「能動的破壊」との差異を愛することができるようになるからですー個々の人間のうちに生起するツァラトゥストラの愛。

(中略)

自由意志は、こうした否定的な仕方で、つまり〈意志の無〉として消滅する道を歩むことになります。外側からの圧力なしに人間がいかなる変化も出来ないとしたら、つまり受動的な変様でしか自らを充たすことができないとしたら、人間は、ニヒリズムの完成のために、鉄と火だけでそれを達成することができず、そのために原子力を必要としたのだとさえ言えるでしょう。

しかし、能動的破壊のもとで怨恨(ルサンチマン)をもたずに自由意志の成立を排除できるような感性、こうした感性に帰属する遠近法が開くものは、何よりも超人への倫理作用Πなのです。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.190-201、河出ブックス
  1. 倫理作用Πとは、能動的破壊のもとでルサンチマンも自由意志も排除した感性をもたらす倫理的作用のこと
  2. 人間が超人に移行するプロセスで、ニヒリズムー〈無への意志〉から〈意志の無〉への移行ーは避けがたい
  3. 自由意志は受動的消滅をもたらす一方、自由意志の排除は能動的破壊をもたらすことの差異への認識が重要

ここで参考になるのが、自由意志に関するトリレンマです。

  • 局所性
  • 自由意志
  • 運命論(決定論)

の3つは論理学的には同時に成立せず、いずれか2つが同時に成立し、1つが成立しないという話です。

人間の道徳は「自由意志+運命論or局所性」を、超人の倫理は「運命論+局所性」を選ぶと言えます。

(詳細は”Bringing About the Past“(過去を変えようとする酋長の祈り)や自由意志定理などで検索)

倫理作用Ψ

三つ目は、倫理作用Ψについての考察です。

「視点を取る」とは、視点を取ることができるという意味であり、それは力の問題なのです。つまり、視点とは、そこからその物をそのように知覚することができるという力による問題提起なのです。言い換えると、視点が力能の意思に関係づけられることによって、視点は、はじめて質的な視線となり、さらに強度的な遠近法になるのです。或る同一物を異なった視点から見れば、その物の見える姿は、たしかに多様な差異のもとに現れるでしょう。しかし、それでも視点の複数性と視線の多様性とは違います。

この限りで、この多様性とは何でしょうか。それは、一つの真理とその正当な解釈をめぐって否定的に生み出された諸々の道徳的遠近法がもつ単なる複数性とはけっして相容れず、またこの複数性をそのまま存在論化したまさに「存在の多様性」に抵抗するものなのです。(例えば、神を頂点とした存在者の位階序列を思い起こしていただきたい。そこでは、完全に存在するのは神だけであって、それ以外の存在者は、程度の差こそあれ、不完全に存在するものと理解されます。ここでは、「神は存在する」と「人間は存在する」あるいは「ネズミは存在する」と言われる場合の「存在する」は、一義的ではなく、多義的に了解されているわけです。これが「存在の多義性」という考え方です。)

というのも、道徳的遠近法においては、存在は、優越性の価値概念を必ずともなって、それゆえ「多義的に」語られ、また存在する諸々の存在者の間の差異は、必ず「否定的に」しか認識されません。道徳的遠近法が生み出した存在論、それが「存在の多様性」なのです。

さて、それだけでなく、先のデリダの言明にもあったように、単なる多元論も批判の対象にされました。なぜなら、先に提起した解釈空間(i、m、a、v、j…)において解釈は、たしかに質的に多様ではありますが、しかし、依然として作品aに対しては、外在的な、互いに等距離にあるような力の関係しか示すことができないからです。つまり、解釈の選択の問題、諸力の間の位相階序列の問題は、単なる多元論では理解することができないということです。

重要なことは、理解のアスペクトを変えて、各個の解釈それ自体が、力能の意志による一つの選択の事実であると捉えることなのです。すなわち、個々の解釈は、私たちの相互に置換可能な視点や、相互に質的に異なった視線のもとで成立するのではなく、それ自体が作品に対する固有の知覚や理解の仕方を示しているような遠近法(パースペクティブ)でなければならないということです(こうした意味での解釈空間をimavj…と太文字で表記することにします)。

(中略)

解釈とは、認識対象の側の諸事情や諸実体を単に形容するような、認識主体の側の行為などではありません。解釈こそが、反対にこうした実体や主体の存在や本質を構成してしまうような存在の様態、つまり倫理の働きなのです。

解釈の真只中では、何が起きるのか。そこでは、まさに固定化した物の同一性や私たち人間の硬直化した意識や認識が解体され溶解していくのです。つまり、認識とは、解釈が固まったものだということです。

解釈にあるのは、〈真/偽〉でも、〈善/悪〉でも、〈正当/不当〉でもなく、ただ個々の解釈の〈よいとわるい〉、〈強さと弱さ〉、〈速さと遅さ〉ーこれらを総称して「強度」と呼びましょうーがあるだけです。個々の解釈がそれぞれに特異な遠近法をもつとすれば、遠近法主義とは、言わばこうした多様な解釈の肯定です。これを解釈の一義性と呼ぶことにしましょう。遠近法主義とは、こうした解釈の一義性を肯定しているのです。(「存在の一義性」については、本書の第二章を参照のこと)。

ではこの場合の一義性とは何でしょうか。それは、個々の解釈は相互に異なっているが、しかしそれらの間にけっして優劣関係はないということを意味する言葉です。この限りで、個々の解釈の差異が明らかになるためには、つまり個々の解釈の差異が、それらのもつ強さ、強度のもとで明らかになるためには、一義性の概念ー遠近法主義ーが不可欠になります。というのも、一義性は、多様なものの間の対等性の概念だからです。

そこで、ここまで述べてきた「作品」の場所に、それに代わって「物」を置いたならば、どうなるでしょうか。この強度によって区別される一つ一つの解釈、すなわち遠近法(パースペクティブ)は、まさに〈認識-主体〉(解釈としての認識と読む)における遠近法主義を構成することになるでしょう。要するに、あらゆる遠近法について一義性の概念を与えるのが「遠近法主義」なのです。脱構築の思想は、最初からニーチェの遠近法主義を現代において再生するという意義をもったものなのです。

(中略)

遠近法は、生ける認識の生成であり、それ自体が肯定を意味しています。そして、この生成に存在の性質を刻印するのが、遠近法主義なのです。この限りで、遠近法主義とは、あらゆる遠近法に解釈の一義性という存在の性質を刻印する働きをもつわけです。

私は、この働きをあえて〈倫理作用Ψ〉と呼ぶことにします(このプサイは、「精神」という意味をもつギリシア語のpsyche(プシュケー)の頭文字からとりました)。

生きることは、絶えざる生成です。身体はそれを知っています。しかし、精神がそれにブレーキを掛けたりします。そうではなく、こうした生成(=肯定)を与える作用、それがこの〈倫理作用Ψ〉なのです。

江川隆男、超人の倫理〈哲学すること入門〉、pp.149-158、河出ブックス
  1. 倫理作用Ψとは、精神のブレーキに対抗し、認識の生成を与える倫理的作用のこと
  2. 認識とは、実体や本質を構成する倫理的な働き(つまり解釈)が固定化されたもの
  3. 解釈とは、視点を取ることが「できる」という意味から、力能の観点で捉えられる

異なる観点に基づいて物事を考えるにはある種の(超人的)力が必要ということです。

まとめ

三行でまとめてみると、かなりわかりやすかったのではないでしょうか。

しかし、短く記述することで、本来の意味との解離も生まれそうでした。

伝えようとして短くしても、正確に伝わらなければ意義も薄いでしょう。

一方で、短い文章は実際の行動に移しやすくなるなどの利点もあります。

SDGsのようなスローガンも、簡潔なので共有されやすくなっています。

単に三行にすれば良いのではなく、文字数は目的が重要という話でした。

参考図書

より深く「超人の倫理」を知りたい方は、ぜひ書籍をご一読ください。

超人の倫理 —〈哲学すること〉入門 (河出ブックス)

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