哲学

コロナ禍における実存的不安の哲学的意味-映画diner、を例に解説

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映像批評を通じたコミュニケーション

現在、コロナウイルスなどの影響で、自粛生活をしている人が増えています。

哲学者の小林康夫氏は「現代人は皮膚という薄い壁の井戸の中に囲まれながら、スクリーンをぼんやり眺めるような在り方で存在すると指摘しました。

スクリーンとスクリーンを介したコミュニケーションをするためには、村上春樹の「世界の終わりとワンダーランド」で描かれた「地上と地下の二重世界における引きこもり的実存」の中で、安部公房の砂の女で描かれた「脱出不可能な砂の牢獄の中で、自分と同じ苦しみをカラスに与えるために”希望”という名前の【カラス捕獲装置】をつくる」ような世界への応答が必要になります。

弊社も一種の”希望”という名前の装置として、現実逃避をするための映像評論と、現状を変えるためのスモールビジネス論を掲載してまいりました。

また、弊社はランサーズなどのクラウドソーシングサイトを通じたお仕事のご依頼などを行っているのですが、弊社の映像に対する感想記事執筆のお仕事に興味を持たれた方に、記事執筆されたい旨を伺いました。

その方はライターとしては駆け出しでしたが、弊社の場合は上述の通り特殊で、”希望”という名前の装置というニュアンスで発信していたので、スクリーンとスクリーンを介した映像批評という形式をとったコミュニケーションができる良い機会だと思い、執筆を依頼しました。

また、弊社のお仕事をきっかけとして、ライターのお仕事に興味を持たれた方がご活躍されましたら、これほど嬉しいこともありません。

それでは、今回ナガータ様に執筆いただいた映画dinerの感想をご紹介します。

ナガータ様の「diner」映画批評

自己紹介

皆さん、こんにちは。愛知県在住、新人駆け出しライターのナガータです。

私は、若い頃からこれと言ってやりたい事があったわけでもなく、交友関係も微々たるものでした。

振り返れば、正直パッとしない人生でしたね。

今は地元で働き、両親と暮らしていますが、いっそ婚活でもしてみようかな、などと思い巡らしては相も変わらず取り留めのない日々を過ごしています。

dinerの感想

dinerの感想としては、まずはやはり、藤原竜也さんが演じたボンベロが良かったことですね。

あのファンタジックで怪しげな世界観をバックにとにかく光ったボンベロの存在は、本当に魅力的で印象深く、然程似合っている様にも見えなかったコック姿が、今でもまぶたの裏に焼き付いています。

話の展開の面では、人間不信でそれまで只々無為な日々を過ごしてきたヒロインが、殺し屋専用の食堂・ダイナーで働く姿は、人生の無慈悲さを痛感するものではありましたが、見ていて不思議と疲れる展開でもなかったのは、人間の本能的でタフな部分というものも同時にそこに映し出されていたからだと思われます。

恐らく彼女は、突然放り込まれたあの食堂で生まれて初めて必死になったのではないでしょうか。

物語のラストでメキシコの死者の日(日本でいうお盆)にカナコ(ヒロイン)の店に現れたボンベロは、その辺の成果をチェックしに来たようにも思われ、カナコは受け継いだボンベロ自慢のバーガーを出しました。

二人の関係性は決してまともではなかったけど、それでもしみじみと人生の良さみたいなものを伝えてくれる、私にとってdinerはそんな作品となりました、面白かったです。

dinerの考察

私がdinerを見てひとしお感じられたのは、少し怪しげな感じにはなりますが、運命というものについてです。

ヒロインのオオバカナコは、恵まれない家庭環境で育ち、人を信じられない人間となっていました。

そのため、社会に自分の居場所も見出せず、自分は中身空っぽの人間であると悲観に暮れる日々を送っていましたが、そんなカナコが、ひょんなことからダイナーでウェイトレスをするはめとなり、そこで事態は一変しました。

元殺し屋の凄腕料理人であるボンベロの下で、命懸けで働かされるという過酷な状況が、空っぽだった彼女の中身を少しづつ埋めていったのです。

私は自分の事を空っぽとは思いませんが、同じくパッとしない人生を歩んだ者として、何となくですが、カナコの境遇について理解出来る部分がある気がします。

こういう問題は個人の意思の力だけでは、殆どの場合、何ともならないようにも感じますが、カナコの場合は、理性を剥がれる感じで窮地に追い込まれたことが功を奏しました。

dinerで必死になって生き抜いた自分やボンベロ達との記憶が、徐々に空っぽだった彼女を埋めて行ったのだと思います。

戦争は科学を発展させるという話を聞きますが、人間は何か理由がなければ現状を変えるような努力や行動をしないように思われます、コロナ後にオンラインでの映像コミュニケーションが一挙に広まったのもその一例ではないでしょうか。

カナコがdinerで空っぽだった自分を埋めれたのも、戦争による科学の発達なども、等しく個人の意思というものを超越した作用のように感じられますが、こういうのを人は運命と呼ぶのではと個人的には捉えています。

皆さんの目に本作dinerはどう映るでしょうか?

執筆の感想

純粋な形の映画批評を書くのは、今回が初めてとなりました。

感想として一番に思ったのは、やはり指定された字数で原稿をまとめ上げることの難しさですね、300字程でdinerを語るのはさすがに骨が折れるというか、結局、随分とはみ出してしまいました。

ただ、この案件を受けたことで作品批評を書く上でのポイントのようなものが、少なからず得られたと思います、有難うございました。

ナガータ様の批評への応答

ナガータ様、ご執筆いただき、ありがとうございました。

今回は「『実存』をぶつけた文章」をお願いしたのです。

まさに率直なご感想と考察をいただけて、助かりました。

さて、映画dinerは、元殺し屋で、殺し屋御用達の食堂のオーナー・ボンベロと、スペインの渡航費用を稼ぐために裏バイトに手を出した結果、殺し屋に身柄を取り押さえられ、ボンベロのもとでウェイトレスとして働くことになるオオバカナコの二人を中心とした、食堂で繰り広げられる人間ドラマを描いた作品です。

オオバカナコは、幼い頃に両親が離婚し、母親に置いていかれたことをきっかけに、「自分は必要とされない存在だ」という孤独感を抱えて生きています。そんな彼女は、偶然街中でメキシコの死者の日を祝う派手な衣装の一団を目にし、メキシコのグアナファトの写真を手にしたことで、「自分も行ってみたい」と思い、即金性の高い裏バイトに手を出すことになります。

世界をモノクロ写真のように見ていたカナコは、まるで光が差し込まない井戸のなかで井戸のなかで生活しているような状況でした。そこに、カラフルな光景を目の当たりし、「希望」を感じたのだと思います。

映画では「ここではないどこか」に旅行することが可能でした。しかし新型コロナウイルスは、自由な渡航や移動を制限し、常にテレワークも増加するなどした結果、「いつもの場所」に居続けざるを得ない状況になりました。

そんな私たちが逃避を望むとしたら、スマートフォンを覗き込んで、どこか遠い場所に思いを馳せるのが限界でしょう。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では、「私」と「僕」の二つの視点から二重世界を描いていますが、ある意味で「物理的に自粛し続ける現実」と「心理的に浮遊し続ける虚構」を往復しながら生きている状態は、今世紀の特徴的なライフスタイルが加速した形式だと言えるでしょう。

哲学者の小林康夫氏は「君自身の哲学へ」のなかで、井戸のなかでそれぞれがスクリーンを通じて「今ここにいる」といった実存の在り方があると言います。

村上春樹は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」以来、地下と地上の二重の世界を主題的に書いてきていて、それが彼の文学世界のファンタジーの軸になっていたりもするわけで、もちろん、それを簡単に、「引きこもり」現象に結びつけるのは短絡しすぎなのですが、しかし、僕はわりと感覚的にそれを、ひとつの兆候として受け止め、共感するところがある。

(中略)

でも、それは昔からよく言われたような孤独という問題とは少し違っていて、不思議なことに井戸の中にはスクリーンが置かれていたりする。井戸の底に水はないけれど、数十センチ四方のスクリーンがあって、そのスクリーンには外のいろんな光景が映っている・・・・・・このように現代の「今ここにいる」という実存のひとつの在り方を、僕はイメージします。

(中略)

この井戸のような実存からどういうふうに人々が、電子情報的にではなく、つながっていく筋道を見出せるのかということが、今の時代の非常に重大な思考の課題になりかかっているように思えるのです。

(中略)

井戸は大地につくられた窪み、穴なわけですが、それが掘られているまわりの大地こそがわれわれの共通の歴史の地層ではないか。井戸のなかにはポツンと誰か一人がいるのかもしれないけれど、それが掘られている大地は多くの人々の、つまり無名の歴史の大地……という方向に、僕の思考は向かおうとしている。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.20-23、大和書房

カナコは電子情報的にスクリーンを通じてでなく、街中での偶然の出会いを通じて、つまり井戸と井戸をつなぐ大地を通じて新しい自分の在り方、新しい実存をイメージすることができました。すなわち、自分自身がはまり込んでいた井戸からの脱出を夢見た。

そんなカナコが移動するために裏バイト(配送業)をはじめ、結果的に殺し屋の集まる食堂(キャンティーン)に行くことになるのですが、これは哲学的には四つのトポスである、

  • 井戸

というカテゴリーのなかで、

井戸(カナコ自身の精神的に孤独な井戸)→船(移動としての場所)→別の井戸(殺し屋の集まる食堂)

という動きをストーリ展開で見せたと言えます。

dinerのストーリーを理解する上で、この4つの場所のカテゴリーは役に立ちます。

例えば、食堂が井戸的な場所だとすれば、上下関係の激しい殺し屋の抗争は、権力を追い求めて組織の頂点を目指す「塔」を象徴していると言えます。すなわち、「塔」としての組織と「井戸」という食堂が交差することで、クライマックスのシーンでは「墓」が表出され、自由の身になったボンベロとカナコは「船」でメキシコに行けたのだとみなすことができるのです。

涸れ井戸の底に一人で座っているというこの原型的なイメージを考えてみると、これは塔のイメージの方向転換だということはすぐわかります。つまり、石を塔のように天に向かって、上に積み上げていくのではなく、今僕が大地と呼んでいるものへと、下のほうに積み下げることによって、世界からいったん退却するという仕方を考えることができる。井戸というのは塔の陰画なのです。それはそびえ立つ塔と同じ空間が、反転的に、ーと言っても重力の方向性は変わっていないのですがー大地のほうに向かっていると考えられるわけです。

塔を建てることは、つねに人類にとってのきわめて始原的な欲求としてあったし、ある。建築は、実は塔に象徴されるような仕方でつくられてきたのです。建築には住居としての建築とそうではない建築の二通りがありますが、住居が地上に自分たちの世界を構成するものだとすれば、必要性に根拠を置く住居とは異なるもうひとつの超越的な建築の欲望というものがあって、それは、天と地上とを結ぶ塔をつくることだったというのが僕の基本的な考え方です。

そのような建築のもっとも始原的な、根源的な欲望を簡単に分類して、僕は以前に「塔と井戸と船と墓」という四つのトポスを提起したことがありました。塔をつくる、井戸をつくる、船をつくる、そして墓をつくるーこのなかで、塔と井戸は、ある意味では、対照的なものですが、いずれにせよ、人間が天と地のあいだで垂直に立つ存在であること、そして象徴的に、自分たちが天と地のあいだにいるということを明確に示す最大の構築物が、塔であったと僕は思っています。

(中略)

塔はどこからも、誰からも見られ、目につくもの。なおかつ周囲を「支配する」ものです。それは、支配の空間的形象です。つまり、基本的に「見られる」ということと「支配する」という、中心と周辺という「円心的構造」に乗っかっているのだけれど、井戸というのはまさにそうした図式から脱却することととらえることができる。

これは、あくまでもこの時代における実存という文脈で語っているので、今だって人間の文化としては当然スカイツリーも立ち上がるわけで、塔を建てようという人間の欲望は果てがないし、多くの人が、そして社会が、塔のように屹立して、より支配権力を高めて人々の注目を浴びて、評価され、目立つ存在になろうと必死になっている。でも、同時に、そういう生き方とは正反対の、むしろそうした相対的な高さへの志向からの限りなき退却、リアリティからの退却のような事態が今、この時代に、進行している。そして、文化の表面的な動きの「下」、かろうじて見える見えないの境界あたりに、そういう井戸的実存がポツポツと細かな穴を穿っている。それが、時代のオスティナートつまり通奏低音のような現象として低く響いている、そんなふうに、僕は感じています。

(中略)

蛇足のように、正直に告白しておくと、この塔=井戸という感覚を僕に開示してくれたものこそ、ル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂でした。いや、それは、塔であり、井戸であり、船であり、……そして墓でもあった。僕にとっての「建築」の経験の圧倒的な原型であったのです。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.25-29、大和書房

「塔」における支配は、資本主義にも色濃く影響を与えています。カナコは自分自身の命を奪われる状況に追い詰められた時、自分自身が唯一自身のある「料理」を武器にして、窮地を逃れました。

dinerの世界観では、人間の命を金銭的な価値でしかはかることが出来ず、当たり前のように人が殺し殺され、非人間的な力学が働いていることが暗示されますが、これはなんてことはない、殺し屋だけでなく、表社会も共通する「グローバリズム」の実態でもあるのです。

しかし、そんな非情な空間でも、カナコは自分の身を守るために、組織のトップを極める会合で必要な宝物をボンベロから隠すことで、なんとか生き延びようとします。あの危機的な状況の中でも希望を抱き続けた彼女は、ある意味でカイジ的です。

また、かつてキャンティーンで働いていていた(そして殺された)ウェイトレスの遺影に映る人物が「早くあなたもこっちにおいで」と手招きするシーンは、孤独だったカナコにとって「ウェイトレス共同体」を意識させるものであり、シーン自体は極めてシュールであるものの、どこか和やかな印象を与えるのは、そこに「でも殺されないように頑張って」という裏の意図が見え隠れしているからではないでしょうか。

グローバリズムというのは、基本的にはあらゆるファクターが非常に目まぐるしく変動する。しかも、経済価値というただひとつの抽象的な、非人間的な基準によってすべてが交換可能になっている、そういう状況だと僕は思っています。

こうしたことをきわめて敏感に若い人たちは実感していると思います。社会が、今、どうやって動いているかなんて誰もきちんと説明していないのに、感覚的にはこの社会がそういう巨大なシステムとしてできあがっていることはよく理解している。つまり、ほとんどマージンがないというか、システムのなかに身を投じないかぎりは生き延びることすらできないということをよく感じ取って、よく理解しているような気がするのです。

問題は、そうやって感じ取っている人たちとともに、そこにどのような希望を見出だせるのかということ。これが僕にとっての最大の問題です。もちろん、その希望というのは「新しい、理想的な社会が到来する」というようなものではなくて、この現実の厳しさにもかかわらず一人ひとりの実存に「希望」というような、なにかひとつの意味が訪れるということ。

(中略)

つまり、そういう人たちに向かってなにか「君らのなかにも希望がある」ということを声として響かせたい。メッセージにして「希望があるんだよ」と言っても、それは彼がゲットするもうひとつの情報にすぎないわけだから、ほとんど意味がないので、そうえはなくて「君が閉じこもったひとつの穴蔵のような存在の在り方は、それを君自身が構築したのだから、君の力によって変えられる可能性もあって、そのときどういう方向に変えるか、そこからどのように君は生きていくか、そこにこそなにかがある」ということを言いたい。

引きこもるという観点からすると、いわゆる「引きこもり」というのとは違って、今はみんなが引きこもっているという言い方もできると思います。ある意味では、誰もがそれを余儀なくされている。だから、あらゆるところで人々はつながっているとも言えるし、あらゆるところで人々は井戸のなかにいるとも言える。

しかも、単に引きこもってまったくバラバラで孤独だというのではなくて、一方では、LINEだったりTwitterだったりFacebookだったりで相互につながっているようにみえるけれども、でも井戸同士はまったく孤立して通じていないというか、井戸には横穴が通っていないように見える。

もちろん、横穴を通すことがいいかどうか、そう単純ではありませんが、この時代のこういう実存の風景から出発して、なにが考えられるかを試してみたいと思います。

(中略)

孤独な井戸から出発して、共同体的なもの、つまりつながりということでもあるけれど、そういうイメージを夢想するということ。だから、一見するとそれぞれがまったく孤立した無関係の実存ではあるけれど、その孤立の奥底に、なにかもうひとつのつながりへと開かれていく可能性がわずかにしろあるのではないかということです。

ほんとうはこういう危機的な状況から出発するということを考えると、ノアの箱船ではないですが、みんなで「船」に乗り込んで岸を離れるという水平的な移動であったり、あるいは「塔」のように(なにしろそれはロケットみたいなものなのだから)天に向かって垂直に脱出するということを考えるのが一般的ですが、そうした明確な出発、はっきりした脱出というのが不可能であるように見えるのが、われわれの時代ですね。だから、「墓」をつくるのでなければ、あとは、「井戸」しかない。

だけど、「井戸」の場合は、退却はできるけれど脱出することはできない。この場から逃げられないということがそこには含意されている。ここから遠くへと旅立って水平線の彼方を目指すとか、あるいは天に向かって上昇していくとか、そういうことではなくて、ある意味ではこの場にとどまりながら、しかし現実からは退却するというか、そこに「井戸」というイメージの鍵がある。

井戸が浅ければ、いつでも地上に、リアリティに戻ってこられる可能性がある。しかし、当面は、とりあえずは、その底に留まりながら引きこもっている。とすれば、その井戸の底の狭い空間にも、ちょうどそれは、ある種の笛というか、楽器の共鳴装置のような空間でもあるのだから、底に響いている音が、音楽が、あるだろう。なにか時代の通奏低音がそこで、聴き取れないような低さで、響いていないか、その音楽にこそ、それぞれの人が耳を澄ましてほしい、という方向に僕の思考は行こうとしているので、その意味である種のロマンティックなものだと思うのです。

井戸の底に響いている音をいくつか拾い上げたい。それを拾い上げることが、そのままいかなる構築的イメージもないままで、しかし「希望」の歌でもあるかもしれない。いずれにしても、われわれの時代の実存の原型みたいなものを通っていかないといけないと思います。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.33-39、大和書房

映画dinerの魅力は、ボンベロとオオバカナコだけでなく、他にも個性豊かな殺し屋たちが登場することにあります。

もちろん、殺し屋同士も一歩間違えれば食堂内で喧嘩(という名の殺し合い)をはじめるわけですが、こちらも一種の共同体のようなものでもあり、作品に華を添えています。

では、なぜこの食堂に殺し屋が集まるかというと、ボンベロのつくる料理が世界一おいしいからです。

しかも、そのおいしさは、単においしいのではなく、「客が最も望んでいる料理」を提供しているから愛されているのです。

あらゆるものを数字で評価する仕組みで考えれば、最大公約数的なおいしさを提供する「食べログ★5」がいいわけですが、世の中には数字では成果雨に見積もれない「最高の一品」があって、それは人によっては「食べログ★∞」をつけてもおかしくないのですね。

この「殺し屋たちが集まる食堂」という構図は、小説「砂の女」に登場する「カラス捕獲装置」の話とも類似しています。

小説の主人公は、砂の穴の底に落ちてしまい、自分と同じ思いをカラスにもさせてやろうと、《希望》という名前の【カラス捕獲装置】をつくるのですが、まったくカラスは引っ掛からず、「自分は無意味なことをしているのではないか」と考えます。

でも彼自身もはっきり言っているように、だいたい自分が捕まえたそのカラスをもう一回まったく別の場所で捕まえる人がいるのだろうか?いないのではないか?だからこれは意味がないんじゃないだろうか?ーこういうことはすべてわかってはいるのですが、自分が置かれた状況のなかで、一種の小さな楽しみというか、「カラスが引っ掛かるかもしれないな」ということだけがほとんど無意味な《希望》であるような罠の装置をつくって、しかし断固として《希望》と命名するわけです。

もちろんこの罠にカラスはまったく引っ掛からない。彼としては非常に巧妙な仕掛けを考えて完璧な装置をつくったと思っているにもかかわらず、カラスからはまったく無視される。引っ掛からないどころか仕掛けた魚がバクテリアにやられてどんどん腐ってしまい、装置としてはまったく機能しなくなってしまう。だけど、その無意味性というか、不可能性というか、まさにそのことがはっきりした瞬間に、その装置が、実はこの砂地の奥底、水がない過酷な状況を左右し、決定している根本要素である「水」を得る装置になっているということに気づく。

《希望》の装置がまったく機能しなかったにもかかわらず、それが彼の意図を超えてまったく別の、彼の存在条件を条件づけている「水」を生み出す装置に変わってしまった。カラスを捕まえるための罠が、そのままで水を溜める装置へと切り替わる。これまで彼は村人から水をもらえることを条件にして穴の底に閉じ込められていたわけですが、「水」を手に入れたことによって彼はその過酷な状況を脱出する一種の手がかりを得る。

決め手の水を自分で精製することができるようになる、ということは、自分の実存の条件づけを解除するということです。そこで状況が逆転して、彼はある種の自由を手に入れることができる。でも、自由になったにもかかわらず、今度は、彼はその自由を行使して、穴の底から出ずにそこにとどまるという選択をするわけですね。今度は、自分の自由において、砂の奥に住み続けるという選択をするに至る。実存の条件を引き受けると言ってもいいかもしれません。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.43-45、大和書房

まさに映画dinerでも同様のシーンがあります。殺し屋スキンは、母親の思い出の味である「スフレ」をキャンティーンにくるたびに注文し、ボンベロも毎回、思い出の味を再現して提供するのですが、いつもスフレのなかには異物が混入しています。

そう、殺し屋のスキンにとっては、「母親との思い出」という脱出不可能な実存のなかで、ボンベロの提供するスフレだけが生きる希望であり続けています。しかし、ボンベロはあえて「スキンが考えているのとは全然違うもの、なにかの鍵」を異物としてわざと混入することで、スキンの希望ー「母親のスフレを最後まで完食したい」ということが実現しないようにして、彼の人生に永遠に意味を与えようとしているのです。

つまり、この小説は、脱出不可能とも思えるみずからの実存のなかで、ほとんど自分も信じていないような希望の装置をつくると、それがひょっとしたら自分が考えているのとは全然違うもの、なにかの鍵、を運んでくるということを一種のフィクションとして示していると読むことができる。

小林康夫、君自身の哲学へ、p.46、大和書房

しかし、オオバカナコは、ボンベロの「わざとスフレに異物を混入しろ」との命令に背き、「完璧なスフレを食べさせてあげたい」という動機から、異物を除いたままのスフレを提供してしまいます。結果的に、スキンは「もうこれで思い残すことはなにもない」と人生の生きる希望を失い、死んでしまいます。 

「かなわない夢を追い求め続けることが生きる希望の人間もいるのがわからないのか」というボンベロの言葉は、なかなかの核心をついてるようにも思えます。すなわち、ボンベロの料理は、砂の女における【カラス捕獲装置】のような、本来は意図していなかったような結果をはからずも生んでしまうのでした。決して満たされることのない人生を生き続けるという同じ目に遭わせようとし続けたボンベロとその料理、そこに依存し続けたスキンは、まさに【カラス捕獲装置】とカラスの関係だと言えるでしょう。

彼自身は、初めから毛細管現象で砂から水が取れるということを考えて装置をつくっているわけではない。そういう目的論的な考え方では、マシンになってしまう。「毛細管現象」によって砂から水を取り出すための装置をつくりましょう」は、まったく科学的な思考で、それは世界のなかで機械をつくっているだけ。そうではなくて、ほとんど自分が陥っている状況と同じような状況をカラスという他者に対して仕掛ける装置をつくろう、とする。

別にカラスを捕まえて食べようというわけではなくて、自分と同じような犠牲者をもう一人出したいというか、あるいは自分の存在論的な状況を反復的に他者に投影したいというか、いずれにしてもこの砂という自分の存在の根本的な牢獄性であるところの性質を利用して罠を仕掛けてみたいという単純な欲望が、実は、砂という一方では、乾ききって水を排除するものが、ほんとうはそれと反対の水を吸い上げる性質をもっているということの発見へと彼を導いていく。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.50-51、大和書房

とはいえ、ボンベロはスキン(カラス)を井戸的実存に縛り続けようとして不完全な食事を提供していたわけではありません。ただただスキンに生き続けてほしかったから、スキンにとっての希望の神話「キャンティーンに行けば母親のスフレが食べられる」をつくっていたのです。

陽明門は、完成と同時に滅びがはじまることを避けるために、わざと完成させないと言います。それは、完全美をよしとする古代西洋建築とは真っ向から対立する概念ですが、哲学的には深いのかもしれません。

一見、毛細管現象と言っているところは科学的な思考でもありますが、その科学思考が神話的なブリコラージュと一体となっている。そして、全体としては現代における実存の神話を、この小説は鮮やかに生み出しているのではないかと。

ここには「希望の神話」があるのではないか。今、井戸みたいな存在状況のなかに、若い人たちも含めて、人間が落ち込んでいる。現実を構成しているリアリティの地表からは少し沈み込んでその穴や窪地のなかにみな一人で閉じこもっている。そこから縄梯子を使って外に脱出するというのではなくて、むしろその与えられた条件のなかで、その根本的な存在条件を含めたブリコラージュ的創造を自分がどう行為できるかがひとつの鍵ではないか、と思うのです。

われわれは、もちろん目的という思考から逃れることはできない。この男も当然カラスを捕まえるという仮の目的みたいなものは設定するわけですが、しかし、ほんとうはカラスを捕まえることが目的ではない。目的とは仮のものでしかない。むしろ装置をつくることのほうが重要で、それをつくることによって、砂の穴という自分の置かれている現実そのものを、自分の意識を超えて理解するようになるところがポイントです。そこで、ブリコラージュという、まがい物やガラクタばかりを集めて、不器用に動くひとつの装置みたいなものを、器用に、つくり上げることこそがむしろわれわれの自由の証であるのではないか。

これは、一般化してしまえば、非常に論理的に正確に動く哲学的な体系がほんとうの意味での哲学的な真理ではないというような、むしろそのつどのブリコラージュ的な、バラード的な寄せ集めの、その場かぎりの思考のうちにこそ、あるいは真理の出来事が到来するかもしれないという、僕自身のノン・スタンダードな、超準的な考え方にすごく通底してくるような気がしています。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.51-53、大和書房

オオバカナコのささやかなスキンへの配慮ー異物の排除ーが、結果的に登場人物の意識を超えたところで、スキンの死を招いてしまったのは皮肉としか言いようがありません。

しかし、スキンは、本当は母親を愛してはいなかったようにも見えます。むしろ母親に存在を縛られていた。だからこそ、母親の写真を持ち歩き、スフレを食べることに執着していた。そして、スキンの顔の傷は、荒れ狂う母親から虐待を受けて傷つけられたものであるとも推測されることから、本当は愛情ではなく恐怖だったのではないかとも覗えます。親の呪縛という共通項でカナコとスキンは似た者同士として認識しあっていましたが、スキンはカナコの「善意」によって、残酷ではありますが、ようやく親から自由になれたとも言えます。本当は、母親のスフレ(愛情)に執着している「にもかかわらず」自由という道もありえたのかもしれません。スフレのなかの「異物」は、スキンにとって不自由ですが、その不自由さこそが生きる希望という皮肉なのです。

だから、ここでは、自由であるということは、現実的な可能性がよりたくさんあるという意味において自由なのではなくて、にもかかわらず自由であるということ。実際、われわれの存在は、まさに自分が選択できないという意味においては、これほど自由と正反対なことはない。このような時代、このような社会、このような国、このような民族、このような家族に生まれてしまっている自分にとって、ほとんど自分の自由になるものなどないにもかかわらず、人間は本質的に自由だということを、わかるというのではなく、それを行為することができるということなんです。

(中略)

不本意にも砂の穴の底に閉じ込められて、まったく不自由で、何ひとつ自分の思い通りにならないけれども、その与えられた状況のなかからわずかなものを使って組み立てた装置が、彼にとっては自由の証となり、それが希望となる。装置を組み立てたからといって、その不自由さが何ひとつ変わりはしないのだけど、しかしそこでけっしてやって来ないカラスを待つことができることにおいて、男の自由はある意味では完全に実現しているのだと思ってもいい。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.56-57、大和書房

スキンとは別に、もうひとり「キッド」とい殺し屋も登場します。

殺す対象を油断させるためにホルモン注射や人体改造で実年齢よりも若返った彼は、女子供ばかりを標的にすることに欲望を見出しています。

そして、まるでその欲望を充たすためだけに、まるで他愛のないことのように人を殺すことに希望を見出している点が特徴的です。

出来事への欲望、希望が彼を支えている。いや、自分の身を投げ出すというほどシリアスにではなく、ほとんどプレイ、つまり遊びのように出来事が到来することを待ち、仕掛ける。他愛のない出来事でいいんです。カラスが罠に引っ掛かるというそれだけのこと。でも、それこそが、希望なのです。がんじがらめの目的論の構造に還元されない、なにか純粋な出来事とでも呼ぶことができるようなこと。

もちろん、多くの場合は、出来事は起こらない。カラスは引っ掛からないわけです。世界は自分に無関心です。彼がつくった遊びの仕掛けなど、世界は完全に無視する。ですが、ここは小説世界です。カラスは、引っ掛からないが、なんと、彼の存在の条件を根本的に規定している水が底に溜まっている。そして、それこそが、出来事なのです。彼の期待が裏切られたところに、まさしくもっとも根源的な出来事が起こるというわけです。彼の期待や目的は見事外される。そしてそのことこそが、出来事ということなんですね。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.58-59、大和書房

なぜキッドは、女子供を狙うのか。それは、キッド自身が出産ショーの余興で産み落とされて、捨てられた「いらない子供」だったからであり、自分を蔑ろにした社会に対して憎悪を抱き、「幸せそうにしている人間」を許せないという回路を自分に構築してしまったからなのです。

女子供を殺すために、子供の容姿を手に入れたキッドは、砂の女の主人公が採集しようとしていたハンミョウのように砂の奥に閉じ込められた井戸的実存の構造と相似な関係にあります。追跡者が獲物に似てくるという構造があらわれているのです。それは、キッドにとっての「スタイル」が表出しているという言い方もできるでしょう。

自分が受けた仕打ちを他者にするみたいな感覚。でも、実は、これはそもそも彼自身の存在のスタイルでもある。スタイルというのは、一種の装置だと言ってもいいでしょう。

なぜなら、個々でこの小説の冒頭の部分、彼がどうしてこの「砂」の「罠」に落ちたのかというこの小説の仕掛けがきいてきます。彼は学校の先生ですが、昆虫採集が好きで、しかも彼が採集しようとするのは、とても奇妙なことに、蝶とか、甲虫とかではなくて、ハンミョウという砂の上をピョンピョン跳ねているような小さな虫なのです。それは、あちらと思えばこちら、というように砂地を跳ね回る道化師のような、トリックスターのような虫で、その新種を探すために、この海辺の砂の丘にやってくる。

ハンミョウは、まるで他者をおびきよせて、罠に誘うような奇妙な運動をするわけで、彼はそれを探して、それを追っかけて、結局「砂の穴」に落ちてしまう。すると、今度は、彼自身が、そのどこか滑稽な囚われ人でありながら、カラスという他者を引っ掛けるための罠をつくろうとする。まあ、彼自身も、都会の現実の生活から、ピョンピョン跳ねて逃げて、自分で自分を罠に誘い込んでいるハンミョウのようでもある。そこでは、どこでも、追跡者が獲物に似てくるという構造があるような気もします。

いずれにしても、このカラスを捕まえる罠というのは、どこか昆虫採集者である彼の本質、しかもその採集者が採集する昆虫そのものに似てきてしまったような、彼の本質を模倣している、なぞっているようなところがある。それは、彼の実存の「神話」です。彼は自分の実存の本質を、《希望》という仕掛けとして、つくる。この試みのなかには彼自身の本質がなんらかの形で表れているんだと思う。それは、スタイルということでもあるのです。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.60-61、大和書房

dinerの登場人物に共通するのは、「親の呪縛」という点です。ボンベロや組織のリーダーたちも、元代表を親のように慕っていたことが、結果的に激しい戦いを生み出す原因となっています。

ナガータ様が指摘されたように、この世界には一人の人間の手ではどうにもならないような理不尽なことー戦争や自然災害、パンデミックなどーがあります。

しかし、その中でも運命の最小単位はなにかと言えば、それは親の存在です。

例えば、最近はよく「親ガチャ」という言葉が取り上げられます。

「自分はこんな親のもとで生まれなければ、もっといい人生を送れたのに」

という感情は、特に家庭環境によるハンディが大きい人間にとって、どうしても感じてしまう感情です。

しかし、ゲームと現実は決定的に異なる点が二つあります。

一つ目は、人生はリセマラができないということです。

とりわけ家庭環境に関しては、与えられたカードで頑張るしかない、というのが現状のようです。

それではイカンだろうという思いで、弊社のコンテンツは基本的に無料または安めにする方針としています。

二つ目は、人生をゲームのようにとらえていても、ゲームのように「救い」はやってこないということです。

では、どうすれば「親ガチャ」を乗り越えることができるのか。

いろいろな案が考えられますが、ここでは、「正しい、正しくない」の基準を捨てて、楽になるという方法です。

事物の触感、手触り、質によって触発される。そこに自分と現実との一種の結び目があるというか、自分が置かれている環境、存在自体がそこにひとつの結び目を生み出すというか、入れ子となるというか。それが自分に与えられた存在の条件に対するひとつの問いかけになる、という気がします。自分の現実のなかでその問いかけをしないで、非常に精巧にできあがった、誰のものでもない、ゲームのなかでそれを拡散させてしまうと、自分の問いにはならない。

そうすると、「ある日突然かならず救いはやってくる」、「誰かが救ってくれる」という幻想に囚われる。でも、誰も助けには来ない。ゲームからは出来事はやってこない。他者のつくった幻想のなかに逃げ込んでいるだけだから。やはり、自分が自分の現実のなかで、その質に向かって、問いかけることによって、自分の神話を手づくりしていかなければならないのです。

僕がブリコラージュという言葉を強調するのは、「正しいか、正しくないかという基準はない。正しい神話、正しくない神話というものがあるわけではない、問題は君がそれをつくるかどうかだ」ということを言いたいからです。

「正しい」という基準を捨てて、目的論的な発想を捨てて、君自身の実存の神話をつくるなら、それは君がつくったものなのだから、それでいい。もちろん、もともと機能なんかしないのだから。カラスは捕まらないのだから。どこかにあるような他の基準と比べてみて、「正しい、正しくない」とか「間違っている、間違っていない」ということを考えていること自体がますます井戸のなかへと自分を落ち込ませることになるのではないか、と言いたいわけです。そうではなくて、「正しい、正しくない」という二律背反的基準そのものを無効にするために、それから逃れるために純粋に、自分の実存の質に触れるようなものをつくり、あるいはそれを行為する。まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、成否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に遊ぶべきだろう、と。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.65-66、大和書房

正しさを押し付けてくる家族や他者から積極的に退却し、「過去の呪縛」という「井戸」から無理に抜け出そうとせず(無理に抜け出そうとした結果がスキンの死に象徴されている)、他人の感覚ではなく自分の感覚を通じて「合う」と思ったことを「手がかり」にして、当初は考えていた目的とは異なる結果が出ることと、呪縛からあえて「出ていかない」ということを選ぶことーすなわち「親ガチャ」を受け入れて諦めることこそが本当の「自由」であり「希望」なのだと、絶望の文学、不条理な作品を通じて気づくことなのです。

強いて言えば、他人の感覚は正しくない。他人のものは正しくないんです。なぜなら、自分のものではないから。そして、逆に、自分のものであれば、感覚が研ぎすまされていけば、自然と、いいか悪いかは、わかるんですね。「正しい」のではなく、なんだかわからないが「いい」ということ。これでいい、これがフィットする。そこに、手がかりがある。それがどのようなものであれ、自分の、自分だけの現実に触れる手の触感のなかに「手がかり」があるはずです。

だから、縄梯子をつくろうなんてことは全然しなくてもいい。基本的には、脱出する必要はないということがわかればいい。ある意味では、脱出しようと思うから、ますます井戸のなかに落ち込んでいくわけなので、脱出しなくていいのだと思えばいい。

『砂の女』の仁木という男は、こうして水を手に入れることができて、こうなれば、もう出ていってもいいし出ていかなくてもいいとなった瞬間に、そして一度は完全に穴から脱出した瞬間に、みずから「出ていかない」ことを選ぶ。もちろん、こうこなくては、小説にならないんですが、現実の受け入れこそ、自由の極限ですね。この小説は、その突破の仕方にすごくクリアなイメージを与えている。絶望の文学、不条理の文学として読む人もいるかもしれないけれど、僕は、これは希望の文学ではないかと思う。ここには希望がある。希望という出来事がある、と。

小林康夫、君自身の哲学へ、pp.67-68、大和書房

最終的には、ボンベロとカナコはメキシコで再会し、かつてのキャンティーンのような「井戸的実存」をつくっていくことが暗示されています。二人には幸せになってほしいものです。

蛇足になりますが、この記事やサイトも一種の《希望》と言う名の【カラス捕獲装置】なのですーというよりこの世のすべてのサイトは《希望》とラベリングされてると熟練すればはっきり見えるのですーが、カラスもたまに来るだろうと思いきや、お問い合わせの大半はスパムメールです。

  • 仮想通貨をやってみませんか?
  • サイトSEOを頑張りませんか?
  • Instagramで集客しませんか?
  • リストメールを送りませんか?

こんなのばっかです。もちろん、動画の制作依頼をいただくこともあるので、一通りメールを確認するのですが、ある意味、弊社のお問い合わせ欄自体も傍から見れば自分たちにとっての罠【エスクリップ捕獲装置】を集めてしまっているようです。

小説のように「水」がわきだしてほしい、と常々思っています。

特にスパムでなければ、深い中身がなくても構いませんので、

  • このアニメ/ドラマ/映画が面白い
  • この記事はだめだ/よい/ふつうだ
  • とくに要はないがメールしてみた

などのコメント等がございましたら、よろしくお願いします。

参考図書


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ビデオを通じた人と人のやりとりは、13騎兵防衛圏の風景に触発されています。

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