魚がいる海を、当たり前だと思わない

——映画『MINAMATA―ミナマタ―』を観て、ルアーをつくる会社として考えたこと

映画『MINAMATA―ミナマタ―』を観ました。

きっかけは、映画そのものではなく、一冊の本でした。

岡村靖幸さんの『幸福への道』です。

岡村さんがさまざまな人と「幸福とは何か」を考えていくこの本の中に、アイリーン・美緒子・スミスさんが登場します。

アイリーンさんは、写真家W・ユージン・スミスとともに水俣で暮らし、水俣病患者とその家族を記録し、世界へ伝える活動に携わった人です。

本を読んでアイリーンさんを知り、そこから映画『MINAMATA―ミナマタ―』にたどり着きました。

そして観終わったとき、これは私たちの仕事とまったく無関係な映画ではないと思いました。

私たちは映像制作を仕事にしています。

そして現在、新たに釣り用ルアーの開発・販売にも取り組もうとしています。

そんな立場から水俣について考えると、非常に根本的な問いにぶつかります。

魚が生きられない海になったら、そもそも釣りはできない。

当たり前のことです。

しかし、ルアーの形や性能、価格、売り方ばかりを考えていると、その当たり前を忘れてしまうことがあります。

『MINAMATA』は、それを強烈に思い出させる映画でした。

教科書の「水俣病」から、一人ひとりの人間へ

水俣病という言葉は、多くの人が学校で習ったと思います。

四大公害病。

工場排水。

メチル水銀。

そうした知識としては知っている。

しかし映画を観ていると、「水俣病」という言葉の向こう側にいた、一人ひとりの人間が見えてきます。

海で魚を獲る人がいる。

その魚を食べる家族がいる。

親がいて、子供がいる。

毎日の生活がある。

そこへ、産業活動による汚染が入り込んでくる。

教科書では「公害」という一つの言葉にまとめられる出来事が、映画では一つひとつの家庭の出来事として迫ってきます。

撮られる人だけでなく、撮る人も魂を差し出す

映画の中で、特に印象に残った場面があります。

ユージンが写真について教える場面です。

写真を撮られると魂を奪われる、という話がある。

しかし、それだけではない。

撮られる側だけではなく、撮る側もまた、何かを持っていかれる。

そんな写真観が語られます。

私はこれがとても面白いと思いました。

写真家や映像制作者は、カメラのこちら側にいる「第三者」のように見えます。

しかし、本当に対象の中へ入って撮影するなら、撮る側も無傷ではいられないのかもしれません。

誰かの苦しみを見る。

その人の生活の中へ入る。

シャッターを切る。

そして、その写真を社会へ出す。

撮影とは、対象から何かを持ち帰るだけではなく、撮影する自分自身も何かを差し出す行為なのかもしれない。

映像制作を仕事にしている私たちにとって、これは考えさせられる部分でした。

何を撮るのか。
誰を撮るのか。
何を撮らないのか。
そして、それをどんな文脈で世の中へ届けるのか。

映像をつくるという行為には、それだけの責任があるのだと思います。

家族をうまく愛せなかった写真家が、家族を撮る

映画のユージンは、最初から完成された英雄として登場するわけではありません。

酒に溺れ、荒れた生活を送り、人間関係にも問題を抱えています。

家族との関係も決して単純ではありません。

そんな男が水俣へ行く。

そして患者本人だけではなく、その人を抱き、世話をし、ともに生きる家族へカメラを向けていきます。

私はそこに、少し皮肉なものを感じました。

自分自身の家族をうまく大切にできなかった男が、他人の家族の愛情を撮る。

けれど、その矛盾を抱えた人間だったからこそ、見えたものもあったのかもしれません。

『幸福への道』でアイリーンさんが語るユージンも、単純な「偉人」としてだけ描かれてはいません。

癖があり、弱さもあり、周囲を振り回すこともある。

それでも、写真に対しては徹底的に向き合った。

人間としての弱さと、残した作品の力。

その二つが同じ人間の中に同居しているところも、『MINAMATA』という作品の面白さだと思いました。

一枚の写真には、社会を動かす力がある

水俣病について、文章で説明することはできます。

患者数も書ける。

原因物質も書ける。

企業と住民の対立や、裁判についても説明できる。

しかし、写真には文章とはまた違った力があります。

「患者」という言葉だった人が、一人の人間になる。

「公害」という抽象的な言葉が、一つの家庭の出来事になる。

数字や言葉だけでは届かなかったものが、一枚の写真によって突然こちら側へやってくる。

ユージンたちが残した水俣の写真は、世界へ伝わりました。

写真は水俣で起きていることを世界へ知らせる大きな力となり、水俣病をめぐる運動や社会的な関心とも結びついていきます。

そして約半世紀を経て、その出来事は今度は映画となり、私たちのところまで届いている。

記録された写真や映像は、撮影した人間より長く生きることがある。

映像制作に関わる会社として、このことは忘れたくありません。

水俣での生活は「すごく楽しかった」

ここで、映画を見るきっかけになった『幸福への道』へ戻ります。

水俣というと、どうしても「悲惨な公害事件」というイメージだけで捉えてしまいそうになります。

ところが岡村靖幸さんとの対談で、水俣での生活について聞かれたアイリーンさんは、

「水俣での生活は、すごく楽しかった」

と振り返っています。

(岡村靖幸『幸福への道』、文藝春秋、p.182)

もちろん、水俣病そのものが楽しかったという意味ではありません。

対談では、患者や支援者たちと活動し、一緒に映画を観たり、議論したり、生活したりした日々が語られています。

悲惨な出来事のただ中でも、人間はただ悲しんでいるだけではない。

人と人がつながる。

一緒に何かをする。

笑う。

議論する。

生活する。

水俣を「悲惨な公害事件」という一色だけで塗りつぶしてしまえば、そこで実際に生きていた人々の生活まで見えなくなってしまいます。

写真や映画が記録するべきものは、悲惨さだけではないのかもしれません。

そこに確かに存在していた「生」そのものを残す。

それもまた、写真や映像の役割なのだと思いました。

「つくれる」と「つくっていい」は違う

映画のエンディングでは、水俣だけではなく、世界各地で起きた環境汚染や公害へと視点が広がっていきます。

そこで考えさせられたのが、科学技術の持つ力でした。

科学技術は、人間の生活を大きく豊かにしてきました。

私たち自身も、デジタル技術や映像技術を使って仕事をしています。

これからルアーを開発するうえでも、材料や設計、流体など、さまざまな技術を使います。

科学そのものが悪いわけではありません。

しかし、

「つくれる」ことと「つくっていい」ことは、同じではない。

技術的に可能だからつくる。

効率がいいから生産する。

利益が出るから売る。

それだけで判断したとき、技術は人間や環境を傷つける側にも回り得ます。

技術が強力になればなるほど、「それによって何が起きるのか」を考える責任も大きくなる。

『MINAMATA』のエンディングを見ながら、そんなことを考えました。

映画の中に、一人の釣り人がいる

そして『MINAMATA』には、ほんの一瞬ですが、男性が釣りをしている場面があります。

物語の中心になるようなシーンではありません。

けれど、これから釣り道具をつくろうとしている私には、妙にその光景が印象に残りました。

竿を出す人がいる。

魚を獲る人がいる。

魚を食べる人がいる。

海のそばで生活する人がいる。

釣りという行為は、そこに魚がいることを当然の前提にしています。

しかし水俣の歴史を考えれば、その「当然」は決して当然ではない。

水俣で損なわれたものは、「きれいな海」という抽象的なものだけではありません。

海とともに存在していた、人間の日常そのものでもあったのだと思います。

そして、私たちはルアーをつくろうとしている

ここで映画の話は、自分たちの仕事につながります。

現在、私たちは釣り用ルアーの開発・販売に取り組もうとしています。

魚の習性を調べる。

水の流れを考える。

形状を設計する。

試作品をつくる。

どうすれば魚が反応するのかを考える。

そうしたものづくりは、純粋に面白い。

でも、そのすべてには一つの大前提があります。

そこに魚がいることです。

魚が生きるためには、水が必要です。

その水の中には餌となる生物がいて、植物があり、微生物がいて、それらが生態系をつくっています。

だから釣りに関わる会社にとって、環境への配慮は、商品を売ったあとに付け加える「社会貢献活動」ではないのだと思います。

魚が生きられる水辺がなくなれば、私たちの商品そのものが意味を失います。

環境は、釣りという文化とビジネスの土台です。

だからこそ、ルアーの性能だけではなく、そのルアーが投げ込まれる海や川についても考えていきたい。

まだ小さな取り組みではありますが、ものをつくる側として忘れてはいけない視点だと思っています。

『幸福への道』から、海へ

そもそもの始まりは、「幸福」についての本でした。

岡村靖幸さんの『幸福への道』を読む。

アイリーン・美緒子・スミスさんを知る。

そこから『MINAMATA』を観る。

水俣病について考える。

科学技術について考える。

海について考える。

魚について考える。

そして最後には、自分たちがこれからつくろうとしている一本のルアーについて考えている。

一見すると、ずいぶん遠くまで来たようにも思えます。

でも、実は全部つながっているのかもしれません。

幸福。
家族。
写真。
映像。
科学。
公害。
海。
魚。
釣り。
ものづくり。

『幸福への道』の対談の最後で、岡村さんは再びアイリーンさんに幸福について尋ねます。

その答えの中心にあるのは、「命を尊ぶ」という考えでした。

考えてみれば、水俣の問題も、環境の問題も、私たちがこれから扱う魚の問題も、最後にはここへ戻ってくるのかもしれません。

生命を、私たちはどう扱うのか。

技術を使うときも。

商品をつくるときも。

カメラを向けるときも。

その問いは、ずっと残ります。

魚がいる海を、当たり前だと思わない

もちろん、私たちが一本のルアーをつくったところで、世界の環境問題が解決するわけではありません。

そんな大げさなことを言うつもりはありません。

けれど、ルアーをつくる会社だからこそ、魚のことを考えたい。

魚のことを考えるなら、その魚が暮らしている水のことも考えたい。

そして映像をつくる会社だからこそ、自分たちが大切だと思ったことを、単に商品を格好よく見せるためだけではない形でも伝えていきたい。

魚が泳いでいること。

その魚を追いかけて、人間が釣りを楽しめること。

その風景が、これからも続いていくこと。

それを当たり前だと思わない会社でありたい。

一本のルアーをつくるとき、その向こう側にある海を忘れない。

岡村靖幸さんの『幸福への道』から始まり、『MINAMATA』を観て、最後に自分たちのものづくりへ戻ってきました。

私にとって『MINAMATA』は、公害について学ぶためだけの映画ではありませんでした。

写真や映像には何ができるのか。

科学技術とどう付き合うのか。

生命や環境とどう向き合うのか。

そして、

自分たちは、何をつくり、何を残す会社でありたいのか。

そんなことを考えさせてくれる映画でした。


作品・書籍情報

映画『MINAMATA―ミナマタ―』

ジョニー・デップ主演。写真家W・ユージン・スミスが水俣で患者やその家族を撮影し、水俣病を世界へ伝えていく過程を描いた作品です。

映画公式サイト:


公式映像:

岡村靖幸『幸福への道』

岡村靖幸さんがさまざまな人物と「幸福」をめぐって対話した一冊。アイリーン・美緒子・スミスさんとの対談も収録されています。

岡村靖幸『幸福への道』
文藝春秋、2024年

私たちのルアーについて

現在、私たちは魚の習性や水の流れなどを考えながら、ルアーの開発に取り組んでいます。

https://fish.s-clip.com

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